01

時は攘夷戦争時代。
幾多の侍が戦に赴き、日本を取り戻すために天人と戦う荒れた時代。
その誇りと大切な祖国を賭けて、血に濡れた荒野を駆け抜けた彼らの中に、一人勇敢さよりも慈愛をもった稀有な存在があった。
その者の名は、苗字名前。


第一幕 春


少年は道無き道をひたすらに駆けていた。
否、少年はもう少年の面影を僅かに残しただけの青年ともいえる容貌であった。
戦時中の物資の少なさ故に身は痩せ、手首も足首も折れそうなほど細いが、それでも力強く走り続けていた。
「…っはぁ、っ、はぁ、…は、っ」
息も絶え絶えになりながらようやくたどり着いたそこは、ここらでは少し大きな町の、とある診療所の前だった。
荒れ果てた息もそのままに、僅かな時間さえ惜しい様に彼は扉を開け放つ。
きしんだ引き戸がギシっと音を立てるがそれさえも気にしていられない。
「父さん、母さん!!」
「名前?」
そこにいたのはひと組の医師夫婦。
彼らは息子の様を見て驚いたようにその名前を呼んだ。
―――――彼の名は苗字名前。
この医師夫婦の一人息子であり、自ら医学を学び、行く末はこの苗字診療所を継ぐべくして継ぐ未来の医師であった。
未だ冷めやらぬ熱を体の中に燻らせ、息も整わぬ間に名前は言葉を紡ぐ。
「隣の村にっ、あ、まんとが、来て、村の人が怪我、したって…っ早く来てほしいって…!」
苗字夫妻は名前の言葉を聞いて顔色を変え、母はすぐさま出発の支度をする。
「あなた、私が行きます。ここをお願いします」
「わかったよ、気をつけて行ってくれ。名前」
「父さん?」
「母さんを守ってやってほしいんだ」
息子の様子から察するに、襲われた隣村から逃げてきた誰かが留守を守っていた名前の元へ助けを求め、それをそのままこちらに急いで告げに来たのだろう。
ならば、まだ村の近くには天人が潜んでいる可能性が高い。
普通はそんな場所には近づかないのが上策だ。
しかし医師ならば患者を放っておくことなどもっとできない。
幸いなことに、名前には刀の心得があった。
ならば自分はここに残りいつもの診察にあたり、急を要する隣村には、実力もあり、なおかつ自分よりも細やかな気配りの出来る女性である妻をやったほうが良いのではないかと考えたのだ。
「……わかった」
名前の目は心強い、まっすぐな目だ。
そうして事態は急展開をむかえてゆくことになる。



治療をする体力を残しつつなるだけ急いで隣村に向かうのはなかなかに困難なことだった。
隣村といっても山に囲まれたこの辺りでは一里二里の距離ではない。
事実、名前でも診療所から全力疾走でも半刻以上の時間はかかってしまうだろう。
これから怪我人の治療に奮闘する母に今から荷を背負わせるわけにはいかず、名前は代わりに重たい医療道具を持って母と道をかえす。
走り続けで体力はとうに失われているのに、名前の足はなおも力強くその体を運んで行った。
…こんなとき、自分は根っから医師の心を持っているのではないか、と名前はふと思う。
そんな余裕があるわけでもないのに、今名前の心は己よりも完全に怪我をして苦しんでいる人たちを思っているのだ。
そしてそれはきっと母も同じだろう。
治してあげたい、助けたい、救いたい。
ちっぽけなこの自分たちの手で、何か出来ることがあるならば、それを精一杯。
そうして誰かがまた安堵の息をもらし、喜びの涙を流し、感謝を謳う。
それを今与えることができるのは、ともにその価値を、命を分かち合うことができるのは、名前と名前の母しかいない。
山のふもとにひっそりとたたずむこの辺りの町村には、絶対的に医師が不足していた。
いや、苗字夫妻しかいないといっても過言ではない。
だから苗字夫妻は、助けを求める声があれば駆けつけるし、来るものは決して拒みはせず、そうして多くの人間を、生き物を救ってきたのだ。
そんな両親を名前は誇りに思っている。
まだまだ勉強は足りないものの、最近は父の許しもあり名前もより専門的な治療の手伝いが出来るようになってきた。
その分命の重さを名前自身より重く背負わなくてはならなくなった。
名前が治療を手伝った人が亡くなった夜もあった。
その日はずっと眠れなかった。
しかし次の日にはまた別の助けを求める人が、次々とやってくるのだ。
眠れなかった名前には思うように頭を働かせることも、体を動かすこともかなわなかった。
そんなときにも両親はその優しさと、安堵を与える笑顔と、そして確かな腕で人々を救っていったのだ。
医師を、見た気がした。
今までずっと両親の背を見、治す手を、その姿を見てきた。医師という存在を。
しかしそれはある意味では上辺だけでしかなかったのだ。
人が死ぬ。人を生かす。
一人ひとりが大切な命を持って生まれてきた。
昨日死んだ人も、今日生きている人も同じ命を持って生まれてきたのだ。
単純に割り切っているのではない。死とは決して割り切れるものではないだろう。
しかし死んだ人を悼む間にも人は苦しんでいるのだ。
そして医師は平等でなくてはならない。
その矛盾に、葛藤に、医師としての強さを見つけた気がした。
痛切なまでに、そんな医師に憧れた。
両親に、涙さえ覚えそうなほどの決然さを見た。
そうしてまた、名前は医師を目指す気持ちを強くしたのだ。

それが今から1年ほど前のことだっただろうか。
名前は今年で18歳になった。
20歳になって、父に認められれば正式に医師として独立、もしくは医師を名乗ることを許される。
あと2年、2年しかないのだ。
出来るだけ早く、多くの人を診ることが出来たなら。
そうして両親のように救いを与えることが出来たなら。
学ぶことはまだまだ多い。急いてもならない。
しかしあと2年を足りなく思うも、待ち遠しくて仕方なかった。



そんなことを考えているうちに隣村に着いた。
村の入り口では、苗字の家に駆けこんできた男が頭に包帯を巻いて待っていた。
この包帯は名前が応急処置として巻いたものだ。
「ありがとうございます、ありがとう、こっちです」
男は涙目になりながら名前と名前の母を怪我人の元へ導いた。
その様子が、人々の痛みと、そして見出した希望を表わしているようだった。
「名前」
ふと隣で走っていた母が名前の方を向き、心底嬉しそうな声で言った。
「あなた、包帯巻くの上手になったわね」
「母さん…」
包帯一つとっても効果を追求すれば自然と技術は必要になってくる。
思わぬ褒め言葉に名前の頬はぱっと赤く染まる。
認めてもらえた。
照れ隠しに母の方を向いていた顔を前へ戻し、少し空を仰ぎながら走り続けた。
今日は暖かい晴天の日だ。

慌ただしい様子のある建物へと三人は入ってゆく。
僅かに医療の心得のある者が率先して治療をしているものの、物資も少なくきちんとした医師のいないこの状況では、この図も不思議なものではなかった。
深い刀傷を負って痛みに呻く者。片目を潰されてしまった者。まだ小さな子供までもが大きな泣き声をあげていた。
「ひどい…」
ぼそりと口に出して、天人の卑劣さに拳を握り締める。
爪は短く抓んであるため、手のひらの皮を破ることはない。それでも知らず知らず爪が白くなるほどに力を込めていた。
その手に気づき、やんわりと母が名前の手を解く。
「気持ちはわかるわ。でも今優先すべきことは?」
毅然とした母の目に落ち着きを取り戻す。
「、ごめん母さん、指示をお願いします」
名前の目に光が戻ったのを見て、母は満足そうに微笑んだ。
そうして凛とした医師の目を周囲に向け、よく通る声で指示を飛ばす。
「どなたかお湯を沸かして、包帯を用意してください!出来るだけ沢山。包帯が足りなければ清潔な布を切って代わりにします。沢山血を流した人から私の元へ!頭を怪我した人はそこから動かないでください。私がそこまで参ります。軽傷の方は私の息子に手当をしてもらった後、出来る範囲でいいのでお手伝いをお願いします!小さな子供は親と決して離れないで、それとどなたか村を見回って動けない怪我人がいないか調べてもらえますか。念のために消毒液と手ぬぐいを持って行ってください。患部にあてて血を抑えるだけでも十分ですから。骨の折れた方はこれから熱が出るでしょうから薬を配ります。動けない方は周りの方に手伝っていただいて薬を取りに来て下さい。それと―――……」

昼過ぎに始まった治療は夜中まで続いた。
だがその頃にはだいぶん落ち着いてきて、多くの人が疲れから寝息を立てていた。
名前はずっと治療を続けていた母に、疲れているのだから休んでくれと言って無理やり後片付けを代わっていた。
今起きているものは名前と、痛みに呻く数人だけだ。
片付けをしつつ名前は甲斐甲斐しく熱を出した者の汗を拭き、水を飲ませてやり、患部を冷やしてやった。
その時扉の外に何者かの気配がした。
殺気のようなものは感じないが、いかんせん夜とはいえ忍び過ぎている感の否めない気配で、名前は僅かに身構えた。
ギィ…と小さな音を立てて、月明かりと一緒に人影が入ってくる。
刀のようなものは見当たらないし、危険はなさそうだ。
暗くてよく見えないその姿が、扉が閉まることによってようやく確認できた。
「父さん!」
「名前」
それはわざわざ診療所から駆けつけてくれた父だった。
「どうしてここに?」
父が背負っていた医療道具箱と外套を受け取り、椅子を勧める。父は小声でありがとうと言ってそれに座り、大きく息を吐いた。
全ての物音に気遣っているあたり、その様子を知らずにここへ来ても状況を適切に理解しているのはさすがといえよう。
「私の友達に朝比奈くんという医師がいるのは知っていたね?彼に頼んで診療所を代わってもらったんだ」
「知ってる、父さんと同じくらい凄い医師の人だった」
僅かに目に憧れを潜ませてそういうと、父は声をおさえながらからからと笑った。
「それを朝比奈に言ってごらん。彼はきっと憮然としてしまうよ」
父は大きな手で名前の頭をなでた。もう18になって、些か子供扱いの様にも思えて恥ずかしいが、名前は父の手が好きだったのでおとなしくなでられる。
「こっちにはまだ天人がいるかもしれない、第二第三の被害が出てもおかしくはない。向こうはまだ幕府の保護が近いし、天人の目撃情報も無い。急を要するのはこっちだと判断したんだ」
「そっか…」
正直、名前はほっとした。
自分も医療を学び、常人よりはこの場で働けると知りつつも、やっぱり経験不足な自分は呻く声にはすくんでしまうし、思い切った決断も、うまく安心させることも出来ない。
母の負担だけが増していく中、少し多くの休養をとらせてやることくらいしか出来ないのだ。
だが父が来てくれれば母の負担も減るだろうし、なにより苗字夫妻の名はここらではあまりにも有名で、それだけで皆の不安が取り除かれるだろう。
朝比奈にも感謝しなければならない。
「ま、診療所見ててやるからあとから旨い酒を寄越せと言われたけれどね」
「朝比奈さんはお酒好きなんだ」
「ワクだよワク」
患者を起こしてはいけないから、出来るだけ明かりを落とした部屋は月の光だけでほの暗く、笑った父の顔が陽の光の下とは違って見えて、それはなんだかいつもよりも父という存在を近くに感じさせた。
それがなんだか新鮮で、本当はもっと話をしていたかったのだが、もう寝なさいという父の勧めで名前も床に就くことにした。
「明日もまだ忙しいだろう。今のうちに疲れをとっておかないと動けなくなって後悔するのは名前だよ。私も、名前が頑張ってくれたから今はすることがないみたいだ。一緒に休もう」
そう言って目を細めて微笑んだ父に、名前は嬉しくて仕方がなかった。
両親の役に立てたことが嬉しくて、働きを褒めてもらえたことが嬉しくて。
明日もまた頑張ろう、きっと今日よりも頑張れる、頑張るんだ。
そう心に秘めながら、名前は眠りに着いた。



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