奥村雪男に関する証言Q
だだっ広い教室に、違う制服を着た自分が一人だけ……なんて環境にもいい加減慣れてきたのは、季節が初夏から夏に移り変わる頃だった。
自分から望んだこととはいえ、周りには男女問わず年上の人間ばかり。正直泣きたかったし、数ヶ月前まで小学校だった身には結構精神的に堪える状態で、それでも欠席一つせず……どころか、しっかり訓練生から候補生に昇格したあたり、案外俺ってやるんじゃないかと自信を持つことが出来て今日に至る。
「黒田くんまた明日ねー」
本日最後の講義が終わって、高校生の彼らは足早に教室を出て行った。正十字学園は全寮制の名門校だから、色々と大変なんだろう。門限とか、勉強とか。
あの人も、そうなんだろうか。そう考えた途端脳裏に浮かび上がるのは、先程までこの教室で講義をしていた彼の人。
直接言葉を交わしたのは数える程だ。他の塾生と同じ高校生なのに、いつでも一定の距離を保って決して踏み込まない――踏み込ませない、人。まるで、そうすることが何かの罪悪であるかのように。
高校の三年なんて、人生でも指折りの頑張り地点だと思う。受験に専念するべきなんじゃないんだろうか。それとも、入学してから一度も主席を譲ったことがないという彼には、そんなことを心配すること自体が失礼なのかも知れない。
十七歳の、高校三年生。最年少で祓魔師の認定試験に合格した、上二級。自分の、遥か高みにいる人。
――奥村先生って格好良いよね
――頭良いし優しいし。スポーツも出来るんだって
――え、でもそれってさ……
――何その話?
――知らないの? 有名な話だよ。奥村先生の……が
……だって
――今はバチカン本部にいるらしいよ。だから誰も会っ
たことないんだけどさ、栄転なんかじゃなくって
…………って噂だよ
――噂でしょー? そんな、あんな優しいの、に……
――本当なの? やだー何それ
何も気にしない、只管前だけを見ているように、端からは見える。だから多分、気付いていないのだろう。自分よりも、三年も長く生きているくせに。
「…………ッ」
学生鞄に勉強道具を乱暴に詰めて、席を立つ。今から走って追いかければ、間に合う筈だ。鍵を使って早々に移動していなければ、の話だけど。
「奥村先生っ」
小さくなっていく後ろ姿を確認した瞬間、思わずそう叫んでいた。幸いにして自分と相手以外はこの廊下に居なかったが、そうでなかったら注目されるには十分な行為だっただろう。
「どうかしましたか、黒田君」
進めていた足を止めて、真っ直ぐに此方を見返して。いつもは教室に響く声が今だけは自分一人だけに向けられている。その、どうしようもない優越感。それを悟られないように、出来るだけ真面目そうな顔をした。
「訊きたいことがあるんですけど」
「何ですか? さっきの講義の内容なら――」
「や、違います。そういうんじゃないです」
鞄から早速教科書を取り出そうとした相手をなんとか止めて、続ける。どうしてそう簡単に決めつけてくれちゃうかなーなんて思ったが、このタイミングなら仕方無いのかも知れない。でも、プライベートでは接点が無いのだからどうしようもないのだ。
「先生って、どうして祓魔師になろうと思ったんですか」
「それが僕に訊きたいこと、ですか」
「はぁ、まあ。えーとほら、俺って塾で一番ガキだし。でも先生は、小学生から訓練してるって聞いたんで」
祓魔塾に入るのに年齢制限は無い。あるのは、たった一つの条件。それさえ満たせば、大抵の人間はスタートラインに立つことが出来る。その条件を満たしのは、小学五年の頃。今から二年前のことだった。
「……大した理由では、ないですよ」
困ったように、笑う。この人は、よくこの笑顔を浮かべていた。常日頃から笑う人ではあったけれど、満面の笑みなど見たことがない。いつでもどこか、申し訳無さそうに窺うように笑うのだ、この人は。
「守りたい人が、いたんです」
ポツリと、堪えかねたように零された言葉。それは声量のわりに重々しく響いた。水分を吸収し過ぎたタオルのような。
チラリと此方を窺うように視線が寄越されたので、にっこりと笑って強く頷く。大丈夫だと、そう伝わるように。
「俺も、同じ。守りたい人がいるから入ったんです」
戦隊物も、ライダーも、アニメも、心を揺さぶりはしなかった。映画のヒーローに憧れたこともない。父親がサンタクロースだと幼い頃に知ってから、そんな甘い幻想は消え去ってしまっていた。
けれど、二年前――
「守りたいって、勝手に思ってるだけなんですけどね」
友達とやった肝試し。古びた墓地から、お供えものを盗んでくるというありがちな遊びだった。ありがちではなかったのは、その場に悪魔が居たことだ。――子どもが大好物の。
見えない存在に泣いて怯えて、逃げて逃げて逃げまくって。それでも子どもの悪足掻きなど異形の存在に通用する筈もなく。死ぬんだろうか。そう、諦めかけた瞬間だった。
ヒーローが現れたのは。
翻る黒。両手が握るのは、テレビで見るような無骨な銃で。突然現れたヒーローは、長く小さな言葉を口ずさみながら悪魔と相対し――殲滅した。
――大丈夫?
日常には似つかわしくない硝煙の香りを身に纏いながら、そう言ってヒーローは腰を抜かした自分に手を伸ばしてきた。ひどく優しい笑みを浮かべて。泣きたいくらいに怖くて縮んでいた心が、その笑顔でゆっくりと解けていくのが分かった。喜びと、ぶり返してきた恐怖で、わんわん泣いてしまったから。
困り果てたように寄せられた眉。不器用な手つきで頭を撫でてきた優しい掌。きっと覚えてなんかいないだろう。彼は――この人は。
「先生って、十三歳で祓魔師になったんですよね?」
「そ、うですけど?」
「それってやっぱり、目標があったからだと思うんです。強い意志、ってやつ?」
どうでしょうね、と笑う顔は、いつもと同じ。悔しいと、思う。そんな顔しかさせられない、自分に。
親なんて、兄弟なんて関係無い。そんなことはどうだって良い。アンタが天才かどうかも関係無い。何を思って戦っているのかだって。――守りたい人が、いたんです。それが例え他の誰かのことであったとしても、構いはしなかった。
だって、彼に命を助けられたのは事実だ。それは覆せない真実だ。彼がどんなことを思っていたって、あの日確かに自分は彼に救われて。彼に、憧れた。
そんな顔、するなよ。アンタは俺のヒーローなんだから。そう言えたなら、良いのだけれど。
でも、今のままじゃ駄目だ。何の力も無い、子どもでは。
「先生の兄貴って、一年で合格したんでしょ?」
何でも無いことのように、口にして。近付いて。笑って。
前例があるのなら、俺だって。
見ていてくれなくても構わない。勝手に追い掛ける。必ず振り向かせる。そしてその時に言う言葉は、決まっているのだ。
俺はアンタの、ヒーローになりたい。
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