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背徳の棺桶



 思っていたよりも、荷物はずっと少なかった。部屋の隅に積まれた段ボールを見て、燐はぼんやりとそんなことを考えていた。
 正十字学園への入学と時を同じくして引っ越してきたこの部屋とも、今日でいよいよお別れだった。ほんの数年の住処ではあったが、今まで修道院でしか暮らしてこなかった身にしてみれば大きな変化で。
 大きな建物に二人きりという生活も、生活費を遣り繰りして買い物に行く日々も、たった一人のことを考えて料理を作る毎日も、もう終わりだった。
 本来ならば、もっと早くにこの場所から出て行くべきだったのに、そうはならないで今日というこの日まで此処で暮らすことが出来ていたのは、メフィストの好意と自分の特異な出自が理由だということはよく分かっていて。
 そうして穏やかに過ぎていく日常が退屈であり、愛しくもあり。失うことなど考えられない日常だったのだと、燐は数日前に漸く思い知ったのだった。
 すっかりと荷物が片付けられた、たった一人きりしかいない空間に、劈くような電子音が響き渡る。
「……もしもし」
 相手を確認する意味など、無かった。着信音の設定を変えていたのはこの世でただ一人だけで、その相手から電話が来ることはないのだから。そのたった一人からの着信でなければ、燐にとっては誰からのものでも同じことだった。
「何だ、お前か。ああ、分かってるよ、明日だろ」
 ちらりと壁に目を遣る。それはこの数年で身に付いた仕種だ。……向けられた視線の先には、この年のカレンダーは掛かっていなかった。
「手続きとか、俺分かんないし。そこら辺はお前に任せるって言っただろ、一応お前、俺たちの後見人なんだし」
 用がそれだけなら、切るぜ。そう言って燐は一方的に通話を打ち切って、携帯電話をベッドへと放り投げた。布団が片付けられたベッドは木が剥き出しになっていて、堅い音が歪に響く。獅郎から最後に贈られた物だというのに、燐は見向きもしなかった。
 生活用品も服も、あるだけの物を段ボールに押し込めた。これからの新しい生活を考えると、手元に残る私物は少ない方が良いように思えて徹底的に処分して。読まないくせに億劫で捨てずにいた教科書も、よれよれになったTシャツも、揃えて買った食器も。全部、全部、要らない物だ。――今となっては。
「…………あ」
 そうだ、あれも捨ててしまわなければ。そう思って燐が足を向けた先には、雑誌の山があった。燐も読んでいる月刊誌の他に、雪男が定期購読していた専門書や、気まぐれに買ったもの。特集目当てで買ったものなど。燃えるゴミは今日だったから、引越しの準備の時に出たゴミは粗方処分出来たけれど、雑誌は資源ゴミだ。つまり、捨てるとしたら明後日になる。けれど、その日に自分は此処にはいない。
 ペットボトルや紙パックなどのように、スーパーで回収している類いのものなら良かったのだけれど、これはどうするべきか。明後日の早朝に足を運んで、収集場まで持って行くのが正しいだろうか。それなりに量があるが、この程度の重さは燐にとってなんら問題にはならならい。
 燃やしてしまっても構わないのではないかと、そうもう一人の自分が囁きかけることはなかった。火なら調理場にいけば確保出来るし、そんな回りくどいことをしなくても自分で思い通りに出来る炎がある。この建物は学園からも住宅街からも離れているから、ちょっと物を燃やしたぐらいでは見咎められることもないだろう。そんなことは、分かっていた。けれど、実行するつもりなら、とっくにそうしている。
「ビニール紐ってあったっけかな? ガムテープなら余ってんだけど……」
 引越し用にと購入したガムテープは紙製のものだったし、別に構わないだろう。雑誌を大きさ別に分けて、グルグルとガムテープを巻いていく。雪男が持っていた学術書の類いは、欲しいと言う相手に譲ったり、日本支部の図書館に寄贈したりした。もう雪男にとって必要の無い本でも、受け継いで大切にしてくれる相手がいるならそれで良いだろうと思ったから。
「そーいや、この続き読んでねーな」
 そう言って燐が手に取ったのは、雪男が購入していた雑誌の中で唯一愛読していたものだった。週刊誌ならば月に一度まとめて処分することも出来るけれど、これは分厚くとも月刊誌。何ヶ月か溜めてから処分しないと紐が無駄になると雪男は言っていた。そんな雪男を、主婦のようだと笑ったことも、覚えている。そんな、取るに足らない、他愛も無い日常の一コマが、どうして。
「もう発売日過ぎてるってのに、アイツがいつまでも買わねーから読めねぇじゃんか……っ」
 祓魔師になって、任務をこなして、給料を貰えるようになって。それでも二人の役割は変わらなくて。いつまでも、あの頃の延長線で。それが、ずっと続くものだと訳もなく信じていた。
「馬鹿、野郎……」
 何て愚かな考えだろう。どんなに強くなっても、身体が成長しても、根っこの部分がまるで変わっていない。四年前に、嫌という程思い知った筈なのに。――永遠に続くものなど、ないのだと。
「……っべ」
 頬を伝った雫が、雑誌の表紙に落ちて滲む。ぼんやりと歪んで見えるのは、視界が悪い所為だろうか。水分で紙が歪んだ所為だろうか。どうでも良かった。もう、読むこともない。
 久し振りに表紙を飾ったその漫画は、燐が熱心に読んでいた連載漫画だった。修道院で暮らしていた頃にパイロット版を読んで、その非現実的な世界観に夢中になった。舞台が昔の外国だったというのも、惹かれた理由だったかも知れない。この作者の作品は、日本を舞台にしたものしか読んだことがなかったから。
 フランケンシュタインなんて随分とファンタジックな存在だけれど、悪魔という存在を知りそのカテゴリーに自分自身も当て嵌るのだと知った今は、奇妙な親近感さえあった。人ならざる、その存在に。

 ――ああ、そうだ。

 その発想が、単なる思い付きであったのか、それとも天啓と呼ばれるものであったのかは分からない。それでも、その発想が昏い闇の底に沈んでいた燐に一筋の光を与えたことだけは間違いなかった。
「早く、迎えに行ってやらないとな」
 確か今日、雪男は帰って来る筈だった。本当なら、明日まで会うことは出来ない。けれど、そんなつまらない決まり事はどうだって良くて。会いたいから、会いに行く。ただそれだけのことだ。
 燐は必要最低限の荷物だけを抱えて、すっかりと片付いた部屋を後にした。
 ハンガーに掛けられたままの黒服を、置いたまま。



 桜吹雪とはよく言ったものだと、ぼんやりと志摩は考えながら手持ち無沙汰に立ち尽くしていた。
 どう考えたって早く着き過ぎだろう、と自分をこの状況に置いた張本人に文句を言いたくても、肝心の勝呂は姿を消してしまっていた。真面目な勝呂のことだ、今日という日まで抱え込んでいた感情が堪えきれずに爆発してしまったに違いない。どうせ戻ってくる頃には、あの鋭い瞳は真っ赤になっていることだろう。
 数年前から花粉症を患った子猫丸は、ちょっと先にあるコンビニに飴やティッシュを買いに行ってしまっていたし、今の志摩は本当にやることがなかった。これがごく普通の日常ならば、音楽を聴いたり携帯電話を弄ったりして時間を潰すことも出来たが、流石に今日この場でそれをやってしまうのは不謹慎ではないだろうか、という考えくらいはある。
 初めて足を運ぶ場所だったから迂闊に出歩くことも出来ないし、周りにそれなりの人が居てもそれは自分の知り合いではないから会話に花を咲かせることも出来ない。年齢も、階級も、職業も、バラバラの人達。ひっそりと行う予定だと聞いていたのに、こうも賑わってしまったのは彼の人望故だろうか。
 祓魔塾を卒業してから、随分と顔を合わせなくなった彼を思う。同い年なのに、自分達の誰よりも先に進み、前を見据えていた彼の姿を。
 尤も、定期的に合わなくなったのはなにも彼だけではない。幼馴染の二人以外とはろくに連絡も取ってはいなかった。忙しいとか、進路が違うとか、きっと理由は幾らでもあるけれど、自然とそうなっていたというのが正しい。
 彼女達は、もう来ているだろうか。来ないとは、思わなかった。それだけはありえないと確信していた。だから、此方に向かって来るしえみを目敏く見付けた時、志摩の胸に広がったのは安堵ではなく懐かしさで。
「……っ志摩くん!!」
 けれど、そんな温かな感情は、切羽詰まったしえみの声と表情の前に力無く萎んでしまった。
「も、杜山さんどないしたん? そないに急がんでも、まだ時間に余裕はあるよ」
 落ち着いて、としえみに声を掛けながらも、志摩はそう言う自分の方が落ち着きを失くし初めていることに気が付いていた。
 昔から、勘は良かった。人の顔色を窺って行動するのは当たり前だったし、空気を読む術にも長けていたと思う。そしてそのスキルは、年と経験を重ねるごとに研ぎ澄まされていったのだ。そのスキルが、志摩に囁く。
 何か、良くないことが起こっている――と。
「大変なの、雪ちゃんが……っ」
 もう、彼について驚かされることなんてないと思っていたのに。
 しえみが泣き出しそうな顔で絞り出した声に、志摩は呆然とするしかなかった。



 ピリリリと鳴った携帯に、燐は手を伸ばした。ディスプレイに表示された相手を確かめてから、通話ボタンを押す。
「よお」
 この声を聞くのは、約一週間ぶりのことだ。正直、もっと早くに相手から接触があると思っていた。けれどここ数日燐の携帯にかかって来た着信はかつての同窓からが殆どで。
 見捨てられたのか興味が無くなったのか、それとも既に手は回されているのか。それを確かめる方法など燐には無かったから、ふらりと見付けたこの建物で、こうして連絡を待っていた。自分から掛けようとしなかったのは、最後の良心であったのかも知れない。それとも、自分自身との賭けであったのかも。
「お前ならとっくに知ってるんだろ? 雪男なら俺の隣で寝てるよ――ああ、眠ってるんだ」
 沈黙が下りた相手には構わずに、燐は話を続ける。ひどく楽しそうな声で。
「なぁ、お前なら無駄に生きてんだからさ、色々と知り合いいるんだろ? 科学者とか、魔術師とか」
 紹介してくれよ、と当たり前のように続けた燐を相手は問い質さなかった。燐の迫力に圧されるようなタマではないから、単純に面白がってのことかも知れない。
「早く雪男のやつを起こしてやらないといけないだろ?」
 慈愛の籠った目で、傍らで瞼を閉じている雪男を見る。雪男のこんな姿を見るのも久し振りで、本当は好きなだけこうさせてやりたいけれど。放っておかれるのは、好きじゃない。
 燐の要望に、相手は――メフィストは最終的に応えた。それがしぶしぶのものであったのか、快く応じてのものだったのかは、燐には一切関係の無いことだ。


 それから、何度太陽が昇り月が沈んだか。
 長い間地下にいた燐は知らなかったし、興味も無かった。ただ只管に、今日という日を待ち望んでいた。
 後はどうぞご自由に、と名前ぐらいしか知らない人間が出て行って、この部屋には自分と雪男の二人だけになった。燐は椅子に座り、雪男はベッドに横になっている。燐は剥き出しになっている雪男の胸にそっと手を当てて、意識を集中させた。
 皮肉な話だと、正直思う。今まで戦う道具でしかなかったこの力が、真逆の使われ方をするなんて。それでもきっと、これが一番正しい方法だと思ったから。この力で、雪男を助けるのだと。
「…………?」
 薄らと開かれた瞳。それは半年前と変わらず、美しい蒼を宿していた。自分と、同じ。
「おはよう、雪男」
 ずっと言いたかった、この世のどんな言葉よりも相応しいと信じて疑わない言葉を、燐は口にする。
 昔と同じように、変わらないままに。不思議そうにしている雪男に優しく笑いかけながら。



 ――それから数カ月後、奥村燐は第一級犯罪者として正十字騎士團から国際指名手配されることになる。




※そして一周年企画の『咎人の墓標』へ 続きます。


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