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愚かでも良かった



 奥村雪男というその名前だけは、実は以前から知っていた。
 此方の世界は確かに深いが、決して広いわけではない。些細なことが簡単に噂になって広がる。そんな中で、祓魔師の最年少記録が大幅に塗り替えられたというのは、その年の大ニュースの一つだったのだ。
 志摩が強く興味が惹かれたのは、その少年が自分と同い年だと聞いたから。勝呂と同じく子供の時分より祓魔師を目指して来た身としては、それは当然の反応だろう。
 好奇心と、対抗心。そして、何故中学生にして祓魔師になろうとしたのかということに対しての、純粋な興味。
 いつか自分も祓魔師の資格を得れば、その天才を一目見る機会もあるだろう。そんなことをちょっとした楽しみにして、志摩は正十字学園の門戸を叩いたのだった……が。

 ――新入生代表、奥村雪男。

 その言葉が講堂に響き渡った瞬間、退屈のあまり睡魔に侵食されていた意識が一気に覚醒した。夢か何かかと思ったが、次いで響いた凛とした声に、これが紛れもない現実なのだということを知る。
 落ち着いた足音と共に壇上に上がったのは、高校生にしては恵まれた体躯の少年だった。それだけなら厳つい印象だって与えそうなものだが、清廉さを感じさせる眼鏡と、穏やかさと生真面目さが奇妙に入り混じった顔立ちがそれを和らげていた。
 何より、声が。
 朗々と代表の挨拶を読み上げる声は、とても心地良い。今は緊張故か少々強張ってしまっているが、耳に優しく届く音は決して不快なものではなかった。
 天は気前良く二物も三物も与えたもうたのだなと、その時は素直に感心しただけで。要する彼はによくある天才肌というやつだったのだろうと、興味が一気に削がれていく気さえした。
 学年主席なら当然特進クラスだろうから、日常で関わることもない。祓魔師の称号を得たなら、祓魔塾に行く必要も当然無い。
 つまり、自分と彼は縁というものが無かったのだろうと、その時は思った。一抹の寂しさには、気付かないままに。
 それなのに、その日の放課後には手の届く所に当の本人が居たのだから、驚けば良いのか呆れれば良いのか。
 祓魔師のなり手は少ない。同期が一桁なんて珍しくもないと聞いていたから、教室と生徒が明らかに対応していない状態を見ても特別驚いたりはしなかった。潤いという名の女子がもう少し居てくれたら良いとは思ったけれど。
 そんな中最後に教室に現れたのが、奥村雪男。生徒である筈はないと思っていたら、自分達を教える立場なのだという。人材不足と取るか余程優秀な人間だと解釈するかは非常に難しいところだが、恐らく後者だ。
 このまま何事もなく授業が進められていたなら、志摩がこれ以上雪男に興味を惹かれることも、きっと無かった。

 ――奥村燐。

 自己紹介を聞いた時から彼と全くの無関係ではないだろうと踏んでいた相手は、あろうことか雪男の兄だという。
 しかも双子とのことだったが、二卵性双生児だからなのか見た目も中身も、言葉を疑いたくなるほど似ていなかった。多分誰も信じない。
 それでも、二人が兄弟であることは間違いないようで。
 完全無欠の優等生にしか見えなかった雪男の仮面を、燐はいとも容易く剥がして見せた。そしてそれが、雪男にとっても当たり前のようだった。
 もし燐が居合わせなかったら、燐と一緒に居る彼を見なかったら、一度失われた興味はもう二度と復活することなく、単なる同級生兼教師兼先輩の域を出ないままになっていただろう。
 自分にとって一体どちらの道が最善で最良だったのか、今の志摩には分からない。この先、分かる日が訪れるのかも。
 分かるのはただ、自分がどうしようもなく情けない選択をしてまったという、それだけのことしか。

『好きなんです』

 気持ちを伝える気なんて、これっぽっちも無かった。あの時も、これから先も。それなのに口をついて出てしまったのは、不意打ちのように向けられたあの笑顔の所為。
 日を増す事に膨らんでいく彼への興味。けれど唯一の接点とも言える塾ではあの兄が居たし、かと言って学園で接触が図れるわけもないだろう。そう諦めかけていた時、購買から教室へ帰る途中の渡り廊下で見かけた彼の姿。
 学園ではいつも人に囲まれているような印象だったのに、何故か彼は一人だった。勿論あの兄も、隣に居なかった。
 衝動に突き動かされるままに窓から飛び降りて。クラスメートの声に耳も貸さないまま只管に相手を追い掛けた。入り組んだ道、鬱蒼と茂る木々を抜けて、突然開けた空間。
 打ち捨てられた廃園のような場所の、更に隅。樹齢何年かも分からないような見事な大木の根元にある朽ちたベンチに、目当ての人は居た。いつも姿勢良く伸ばされている背中が、本を読む為にか少し屈められていて、それだけのことが物凄い発見のように思えた。
 お世辞にも華麗な登場とは言えない此方の存在に、きっと彼はとっくに気付いている。それでも何も反応を寄越さないのは、読書の邪魔をされたくないからか、それとも塾以外での付き合いは遠慮したいからなのか。
 どちらにしても、自分は今すぐ此処から立ち去るべきだろう。それは確かに理解していた筈なのに、足は勝手に前へと踏み出していた。身体は正直だ。こんなチャンスはもう二度と無いと、分かっている。
 迷うことなく足は彼を真っ直ぐに目指した。正面に立っても顔は本に向けられたままで、それを寂しく思うよりも、普段は見上げてばかりの相手が今は自分よりも小さいという事実が嬉しかった。形の良い頭も、それを覆う櫛通りの良さそうな黒髪も、普段は滅多に目にすることのない制服姿も、何故だかとても眩しく見える。
 いつまでもそうやって相手に見惚れてしまいそうだった自分の意識を引き戻したのは、パタリと閉じられたら本の音。それに続くように上げられた顔を見て、体温が上がった。間近で見る瞳は、吸い込まれるように美しい。
 此方から近付いて来たのだから、何かを言わなければと情けない声でどうにか彼の名前を呼んだ。いつものように呼ばなかったのは、お互いが制服だったからだろうか。それでも彼にはどうしてかその呼び方がお気に召したらしく、どうしましたか志摩君とひどく柔らかな声が返って来た。
 こんな声も、こんな笑顔も、自分は知らない。もしかしたら彼の兄弟だって知らないかも知れない。そう思ったら、理性が止める間もなく口にしていた。
 それからの彼との遣り取りは、今でも鮮明に思い出せる。ビデオテープなら擦り切れてしまうんじゃないかと思うくらいに反芻したから。
 結果としてはあの日の出来事は夢ではなく現実で、自分と彼は世間でいう恋人同士……という関係になったのだと思う。自信を持ってそう言えないのは、自分達の関係が両思いの上に成り立ったものではないからだ。
 自分の告白を、戸惑いこそすれ彼は拒絶しなかった。誤魔化しも、からかいも。
 誠実な人なのだ。正しくて、真っ直ぐで、鋭いくらいに残酷な人。
 興味が無いと、躊躇うことなく言い切った。好意を持つことがあっても、一番になることは決してないと。そしてその上で、冗談のような提案をして。
 愛されてみたいと、そう言われて。他にどんな答えがあったのか。
 前髪しか持たない女神を捕まえるように、差し出された提案に飛び付いた。これが、最初で最後だと分かってしまったから。これを逃せば、中庭での一幕は無かったことにされると、分かっていたのだ。
 それだけは御免だった。だって、この気持ちはどうしようもないくらいに本当だったから。
 それから『恋人』らしいお付き合いが出来ているのかと言えば、否だった。この関係の大前提に志摩自身が躊躇いを感じていることもあるが、そもそもにして二人になれる時間が圧倒的に少ないという悲しい事実がある。
 クラスどころか校舎さえ違う身では学校生活ですれ違うことすら無く、貴重な放課後は当然祓魔塾に割り当てられる。週末の休みにしたところで、課題やら任務やらで約束を取り付ける隙も無い。
 これは果たして付き合っていると言えるのだろうか。そう考えるのに時間はかからなくて、そのことを冗談めかして相手に訴えてみたところ、昼休みを一緒に過ごすことがストンと決まった。
 今までなら、雪男は兄お手製の弁当を女子に囲まれて食べていたし、志摩にしたところで相手は勝呂達であったりクラスメート達であったりした。それがいきなりの、二人きり。
 やっぱり人目が無い所が良いですよね、のやはりの意味は怖くて訊けなかったが、それでも彼が自分と二人きりになることをを望んでくれたことだけは確かで。しかもその場所が例の中庭だったものだから、嬉しさと恥ずかしさはいやに増した。
 けれど二人きりとなると、問題は会話だった。志摩に与えられた貴重な一時間弱はあまりにも短い。だが、話が弾まなければ拷問のように長い時間にも早変わりする。
 勉強はレベルがそもそも違うし、共通点の悪魔祓いの話を持ちかけようものなら一気に講師モードになることは目に見えている。何か他に良い共通の話題はないものだろうかと、嫌々ながら雪男の片割れに尋ねれば、雪男はああ見えて歳相応に漫画を読んだりするらしく、早速クラスメートに借りるだけ借りて昼休みに臨んだ。
 結果としては、その作戦は成功だった。面白いくらいに話が弾んで、あっという間に時間が過ぎた。けれど、それだけだ。確かにいつもより多くの言葉が交わせ、表情豊かな雪男の顔も見られたけれど、それは志摩の望むものとは微妙に違う。
 雪男と、友達になりたいわけではないのだから。
 そんなモヤモヤが溜まっても爆発せずにいられたのは、昼休みだけとはいえ彼が兄よりも自分を優先してくれているのが嬉しかったからで。
 これは志摩の推測に過ぎないが、雪男は燐を守る為に祓魔師を志したのだろう。正十字騎士團の門戸を叩く人間は、大切な人を守る為か過去の復讐を果たす為かの二つに別れることが多い。杜山しえみのように、成り行きのように此方側へ足を踏み入れるのは非常に稀なことなのだ。
 そして雪男は間違いなく、前者で。物心つく前から悪魔が見えていたというのなら、家族に害が及ばないようにと考えるのは寧ろ自然なことだ。尤も、そうして守ろうとしてきた相手が同じ道を歩むことになろうとは、彼も想像していなかっただろうけれど。
 それほどまでに大切な人を差し置いて、こうして雪男の隣に座ることが許されているというのは、実はとても凄いことなのだとこうなってみて初めて志摩は実感した。何故ならそれは、その他大勢という枠組みではなく、志摩廉造という椅子が彼の中で存在していることに他ならないからだ。
 そして、もう一つ。こうして二人きりで過ごす時にだけ特別に許されたことがある。
 それは、呼び名。いつもは立場を弁えた呼び方をしているが、この関係になってから新たに追加された呼び方がある。それは学園の女子も、古馴染のしえみも、双子の兄弟である燐でさえ使わない名前。
 始めは気恥しくて仕方がなかったが、回数を重ねる度に彼を『雪男さん』と呼ぶことに躊躇いも違和感も薄まっていった。
 雪男も、志摩に合わせて違う呼び方にしようと申し出てくれたことがあった。しかし、それを志摩は断った。改まった呼ばれ方をすると照れ臭いということもあったが、嬉しさよりも虚しさが勝ると気付いていたからだ。
 自分が彼の中で一番になることは決してない。二番目にも三番目にも名前を連ねる日は来ないだろう。それでも、選外ではなくどこかしらに名前ははっきりと刻まれていて。それがどれだけ凄いことなのかもちゃんと分かっていて。
 それでもどうしたってそれ以上を望んでしまう自分が確かに存在している。
 いっそ、息が詰まるほど冷たく拒絶してくれたなら。こんな風に、真綿で首を絞めるような、中途半端な感情ではなく。
 そうしてくれていたら今頃彼を忘れることが出来ていたかも知れないなんて、そんなことはこの世の誰にも分からないのだけれど。





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