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奥村雪男に関する証言H



 家庭教師がいる、なんて言えば、まるで金持ちのようだ。ようだ、じゃなくて実際に金持ちだけど、金を持っているのはあくまでも俺の父親で、俺が金を稼いでいるわけじゃない。
 父親は地元でちょっと大きな総合病院を経営している。医者としてもそこそこ優秀だったらしいが、金を増やす方が得意だったらしく、祖父から病院を受け継いだ途端、規模は倍以上に膨れ上がった……らしい。
 それには地元の名士の娘だった俺の母親との結婚だってまるきり無関係じゃないんだろうけど、金を持ってるからって愛人を作るでもなく、休みが出来れば二人で出掛けるくらいなのだから、大切なのは過程よりも結果なのかも知れない。
 そんな両親は、一粒種の俺に並々ならぬ情熱と期待を傾けることはなかった。かと言って、デロデロに甘やかすこともしなかった。医者になって跡を継げと言われたこともなかったし、生まれた時から婚約者がいる、なんてこともない。
 但し、何もかも子供の好きなようにさせるわけがなく、唯一口を出して来るのが成績に関することだった。別にトップになれなんて言われてない。でも、赤点が許されるわけでもない。
 勉強が出来て困ることはないのだと、両親は口を酸っぱくして言う。学歴主義でもないが、人生の選択肢は多い方が良いのだと。
 言っていることは尤もだと思うが、それに反発したくなるというのが所謂思春期というもので。両親が良かれと思って雇った家庭教師を、俺は何度も辞めさせていた。正確には、辞めるように仕向けていた……だけど。
 見かねた両親が次に寄越したのは、今までで一番年の若い男だった。大学生くらいだろうかと思っていたら、最近高校生になったばかりらしい。俺と二つしか違わない奴に、今更教わることなんてあるのもかと思っていたけど、悔しいことにそいつの教え方は今まで来たどの家庭教師よりも分かり易かった。
 悔しくて、自分でも答えを知らないような大学入試問題や、英語以外の外国語についての問題を出してみたが、そいつはいとも容易く問題をクリアしてしまって。
 そして、駄目押しのようなテストの結果。それは、今まで取ったことのない点数のオンパレードだった。素晴らしいV字回復。
 両親は当然喜んで、その日家庭教師を夕飯に招待したが、そいつはあっさりと断って帰ってしまった。寮に戻らなければいけないからと。
 正十字学園は全寮制だと聞いたことがある。良家の子息子女が集まるのだから、当然の処置だろう。でも、食事まで強制なんて珍しい。そいつは、それから何度母親が誘っても首を縦に振ることは無かった。
 寂しいわけじゃない。嫌われているのかも……と落ち込んだりもしない。ただ、彼奴が傍にいると不思議と空気が洗われるような気がした、たった二つしか年が変わらないのに、既にこの世の多くのものを見てきたような、深い青の瞳。あんな瞳を持つ人間に、今まで会ったことがない。
 家庭教師としてやってくるのは、月・水・金の週三回。入試をトップで合格したのなら、その成績を意地するのだって楽ではないだろうに、その予定が崩されたことは一度も無かった。
 今日は、日曜日だ。学校も家庭教師も休みの日。特に目的があるわけでもないが何となく街に出て、思い思いに店に入っては立ち読みをしたり食事をしたり。
 友達がいないわけじゃない。ただ、その殆どが部活や習い事に精を出していたから、こういった日はまず予定が会わない。遊ぶとしたら放課後くらいだ。大会前でもなければ、部活だってそう忙しくはなかったから。
 一通り店は見て回ったし、特にやりたいこともない。そろそろ帰るかと踵を返した時、視界の隅に見慣れた姿が入り込んだ。
 いつも制服でやってくるから一瞬見間違いかと思ったが、間違いない。彼奴だった。流行に惑わされないシンプルな服を着ていた。身長のわりに体格はスラリとしているから、何でもないような服がどうしてだかとても格好良いようなものに見える。
 思えば、彼奴とは家以外で会ったことなどなかった。分からないことがあった時に、と電話番号もメールアドレスも教えられているけれど、掛けたことなんて一度もない。掛かって来たことも、無い。
 家庭教師としてやって来る時、彼奴は勉強に必要な物しか持ち込まなかった。問題を解かせている時だって、携帯を弄ることも本を読むこともなく、これから進める部分の教科書を丁寧に読み返しているだけで。
 何一つ知らない。あんな、私服姿を見ただけで眩しく感じてしまうくらいに。
 雪男、と初めて名前を呼ぼうとした時、彼の隣に誰かがいることに気が付いた。彼奴よりもちょっと背の低い、男。少しだけ、面影が似ているかも知れない。兄弟だろうか。それとも従兄弟? 分からない。何一つ知らなかったから。
 どうして俺の家庭教師を引き受けたのか、その理由さえもだ。
 スーパーの帰りなのか、二人とも大きなビニール袋を両手にぶら下げていた。葱や大根がピョコンと飛び出ている。トイレットペーパーや、ボックスティッシュも持っていた。休日だから、買い出しに行った帰りなのかも知れない。寮暮らしだと、言っていたのに。
 はっきりと言葉にされたわけでも、明確な暴力を奮われたわけでもない。それなのに、どうしてか胸が酷く痛かった。昔飼っていた犬が死んでしまった時よりも、胸が痛かった。
 彼奴が笑っている。ただそれだけのことなのに。
 だって、気付いてしまったんだ。今、彼奴が隣に居る奴に向ける笑顔と、日頃俺に見せる笑顔は違う。全然違う。
 温かみ、込められた思い。その、全てが。
「馬っ鹿じゃねぇの……」
 たかが、家庭教師じゃないか。成績が上がってしまえば、お払い箱の。なら、どうしてそうしなかった? 教えられた通りにちゃんとやってれば、もっと良い点数が取れた。学年で上位に食い込むことだってきっと出来た筈なのに。
 そう、しなかったのは、きっと――
 今更気付いたところでもう遅い。一度築き上げられた関係はきっと変わらないし、変えようと試みたって途中で挫折するか契約が終わるのがオチだ。
 こんな思いをするくらいだったら、最初から気が付かなければ良かった。知らなければ、良かった。
 どんなに願ったところで、過去に戻ることなんて出来はしないけど。

 


あきゅろす。
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