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正気の範疇外



「男の人は何で女の人を追い掛けるの?」
「神様は男の肋骨を取って女を創られた、それを取り返したいんだよ。男ってのは胸の中の足りないところを持っている人を求めるんだ」
 そうのたまったのは、誰だったろう。昔誰かから聞いたということだけは覚えている。そして、男が女を追い掛けるという図はアダムとイブから変わらないことなんだと妙に納得してしまったのも。
 そして今は、異性を求めるのは生物として当たり前のことだと理解している。
 際どい格好をした女の子が、誘うように此方を見ていた。何てことのない制服の筈なのに、ポーズや小物一つでこうも印象が変わるものなのかと、いっそ感心してしまうほどだ。こういうものを見ると、シュラなんかは逆に健康的なんじゃないかと思えてしまう。彼女の場合、あの露出度の高い格好は機能性を重視したものであったし、ダイエットではない理由で引き締まった身体は単純に感嘆に値する。
 それでも矢張り、男子たるもの同年代の女の子にだってあれこれ夢を見るものなのだろう。雪男は惹き付けられるように手を伸ばし、表紙を捲る。どうやら表紙の女の子は巻頭ページに特集が組まれているらしく、今度は水着の格好で身体をくねらせていた。季節感を大切にしているのか、浴衣なんてものもある。普段からしえみの着物姿を目にしている立場からすると、こうしたレースや光り物が盛り込まれたものは邪道だとすら思うのだが、今はこうしたのが主流なのかも知れない。それに、脳内で脱がされているのならどの道同じだろう。
 雪男はその後もペラリペラリとページを捲っていった。巨乳やコスプレなど、欲張り過ぎて一体何処がメインターゲットなのかよく分からない作りになっている……というのが感想だった。
 因みにこの雑誌は、雪男の私物ではない。この部屋には雪男の他に住人は一人しか居ないので、必然的に持ち主はその一人ということになる。とは言っても、こんな雑誌を買う余裕が金銭的にも精神的にもあるとは思えないので、まず間違いなくこれは借り物だろう。雪男の脳裏に、京都弁を話すピンク頭が浮かんで消えた。
「さて、と……」
 一通り雑誌に目を通し、雪男は考えた。この雑誌、どう対応したものか。
 塾の職員会議を終えて帰ってみると、夕飯時にも拘わらず寮は明かりが灯っておらず、602号室にも誰も居なかった。一体どうしたんだろう、と首を傾げた雪男の視界に飛び込んで来たのがこの雑誌だ。雪男に人のベッドの下を漁る趣味はない。では何処にあったのかと言えば机の上だった。何かでカモフラージュされた形跡も見られず、実に堂々とした姿が印象的でつい手を伸ばしてしまった次第だ。
 思春期の真っ最中であることを考えれば、この手の雑誌を読むことは何ら恥ではない。しかし身内の、しかも弟にそれを目撃されるというのは果たしてどうなのか。雪男は燐ではないので想像で補うしかないが、やはり気まずいだろう。けれどその気持ちを汲んで素知らぬふりをしてやりたくとも、生憎ここまで存在を主張されていては気付かなかったと主張する方が逆に不自然だった。
 面倒ではあるが、一旦外に出るのが良いかも知れない。適当に時間を潰していれば燐も帰って来て、この雑誌を隠すなり何なりするだろう。それを見計らって、自分は帰って来れば良い。解決策を導き出し、雪男はさて出掛けるかとまだ温もりのあるコートを取りに行こうした。机に向けていた身体を反転させる――ガチャリ。音のした方向に顔を向ければ、先程まで思考の半分を占めていた相手がいて。
「……おかえり、兄さん」
「おう、ただいま」
 燐の態度は至って普通。それに上手く対処出来ない自分が歯がゆかった。目を合わせようとしない雪男に、燐がどうしたと近付く。一歩、二歩。そして原因の品を目にした瞬間、スーパーの袋が落下した。卵とか、入ってないと良いけど。


 夕飯の時間はいつになく粛々とした空気が流れていた。燐の作った目にも鮮やかなメニューは美味しいの一言も無く消費されていくばかりで、第三者がこの場に居たら逃げ出したくなるような空間だっただろう。
「な、なあ雪男」
「何」
「あの雑誌、だけどさ、あれ俺のじゃなくて――」
「志摩くんの、でしょ。そんなの言われなくても分かってるから」
「だ、だよなーいやぁ、流石は俺のおとう、と……」
 沈んでいく燐の声と一緒に、寮だからと解放されている尻尾もシューンとうなだれる。耳は垂れないんだなと、まるっきり他人事のように思った。
「あのさ、怒ってる……よな?」
「何が?」
「怒ってる! やっぱ怒ってるだろお前!?」
「だから、何が」
「エロ本だよ!!」
 本当に空気が読めねぇな。知ってたけど。雪男は深々と溜め息を吐いて、今まで触れずにいてあげた話題に向き合うことにした。綺麗に夕飯を平らげてから。
 ミネラルウォーターを飲んで一息ついてから、ひたと燐を見つめる。
「別に怒ってないし呆れてもないよ、健全で良いことじゃないか」
 やりたい盛りの青春時代、そうした類の品に手を出すことを誰が責められるだろう。男ならば、誰もが通る道だ。そう思っていながらも、雪男はそうした性の興味は非常に薄かった。件の雑誌を見ている時も特別何かの衝動に駆られたりはしなかったし、それ以前に手を出そうとしたこともない。
 そうした行為に嫌悪感を抱くわけではないが、自慰も積極的にする方ではなく、下着などを汚すと後々面倒だから仕方無く……という意味合いの方が強かった。清らかや潔癖というよりは、単純に淡白なだけなのだろうと雪男は思っている。
 だから自分が特殊な例だというだけで、燐は世間一般の基準で極々普通の男子高校生なのである。ただ一つ、悪魔という点を除いては。
「男が女を求めるのは当たり前のことだから。女の子、可愛いじゃない」
「まあ、な」
「今度サキュバスでも捕まえてこようか?」
「……バス?」
「夢魔だよ。授業でこの前やっただろ、人間の精気を餌にする悪魔。相手の望む姿を見せられるから、きっと巨乳の女の子と出来るよ。悪魔同士だから、気兼ねしなくて良いしね」
 それに、相手が悪魔なら自分は遠慮無く打ち殺すことが出来る。そんな不穏な考えを綺麗に押し隠して、雪男は得意の笑顔を浮かべてみせた。
「兄さんが僕しか知らないこと、何処かで恥じてるのは分かってたよ。男同士だし、それ以前に家族だし、当たり前なんだけどさ」
 関係を迫ったのは雪男の方からだった。任務から帰って来たらうっかり燐が自分で致している場面に遭遇してしまい、そのままなし崩しで行為に及んだ。
 雪男はこうなる前から兄である燐に不道徳な感情を抱いていて、それが抑えきれなくなったのだ。タイミングが悪かったのだと、あの夜を思い返す日は多い。あんな場面に遭遇しなかったら、この気持ちを胸に秘めたまま飄々と今まで通りに普通の弟を演じていられたと。
 兄さんは悪魔なんだから、人間とは付き合えないだろ。確かそんな尤もらしいことを言って、燐を組み敷いた。繋がっている実感があれば役割はどうでも良かったから、あんな状況でも萎えずにいたものを受け入れて。燐は戸惑っていたし、止めろと何度も言った。それでも一応気持ちは良かったらしく、それから燐の方から求めて来る時だってあったのだ。
 ただ、好きだとは言わなかった。行為に気持ちが伴えば、どんな結末であっても蟠りが残る。自分達は世間的に見れば異常な関係ではあるけれども、これはあくまでも若さ故の過ちであるとか、条件を絞っていった結果の妥協案である……という形にする必要があったからだ。
 雪男は、燐に幸せになって欲しい。
 新しい生活が始まって、少しずつ広がっていく燐の世界に焦りや嫉妬を感じなかったと言えば嘘になるが、それでも全ては燐の為と醜い感情を押し隠して。燐がいつかしえみへの恋心をはっきり自覚しても、笑って応援しようと決めていた。
 兄は、自分を選ばない。けれど自分は、兄だけ。最初で最後の人。
 だから、今更エロ本如きで動揺するような柔な心臓ではないのだ。そんなことは、想定内のことなのだから。
「兄さんのそういう欲求は、正しいことだから。僕が変な道に目覚めさせてないなら良かったよ」
「わけわかんねぇ」
「……そう?」
「何でお前は俺の浮気を認めてんだよ、普通は怒るとこだろここは。銃とか出してよ!」
「浮気って、何言ってるの兄さん? 僕達、そんな関係じゃないだろ」
 セフレが他の相手と行為に及んだからといって、怒る資格はない。自分が気持ちを伝えていればまた話は変わるだろうが、そうする気も無いのだから。
「俺達は、」
「兄弟でしょ? 時々セックスするだけの」
「セッ……だから、そういうのを恋人っていうんだろうがっ」
 顔を赤らめながら、それでも真面目に言い切った燐を見て、雪男は衝撃で倒れそうになった。まさか兄が、ここまで救えない馬鹿だったとは。男女ならば兎も角、同性でそんな関係が成り立つわけがない。そうした嗜好を持つ人達を否定するわけではないけれど。
 第一、自分達の間には大前提となるべき感情がまず存在していないのだから。
「兄さん、僕を好きだとでも言うつもり……?」
 まさかなと、あくまでも自分の考えを立証する材料を得る為だけにした質問。返って来る言葉など最初から分かっていたし、期待などこの想いを自覚した瞬間から止めていた。それなのに。
「は? 当たり前じゃん」
 何言ってんのお前、みたいな顔で爆弾発言を投下されて。
 何を言ってるの、なんて、此方が言いたい。今まで一度もそんなこと言わなかったくせに、どうして今更。
「雪男?」
 片想いで良いと思っていた。いつだって別れを覚悟して、守り抜くことも殺すことも出来るように生きて来た。どんな道を歩んでも、どんな結末を迎えても、この人は僕の大切な人。世界で一番。それは変わらない。それだけは絶対に。だからそれで満足だった。今もこうして側に居ることが許されて、抱えていた嘘が少し減って。
 幸せだ……と、もう充分だと思っていたのに、どうして優しくしてくれるの。抱き締めてくれるの。好きだなんて、言ってくれるの。そんな、過ぎたものばかり。
「泣くほど嫌だったか? 俺、お前なら結構似合うと思うんだけどなー」
 セーラーとか、チャイナとか。スーツでも良いけどさー。
 優しく抱き締められながら耳に入って来たとんでもない単語に、驚愕で涙が止まった。
「なに、それ……」
「だからー俺が志摩からエロ本借りたのは、グラビア目当てじゃなくて今後のプレイの参考にであって――」
「コスプレして、そういうことを、しようって?」
 此奴は何て言ってた。確か、セーラー服とかチャイナとか。目的が目的だから、水夫とか華僑の類では当然なく、あの雑誌に載っていた女の子達が着ていたようなアレだ。
「……兄さん、明日眼鏡を作りに行こう。お金は僕が出すから」
「はぁ? 俺、視力検査両方2.0だったぞ」
「じゃあ頭かな。きっと何処か可笑しいよ、僕にそんな格好が似合う筈がないんだから。絶対に御免だ」
 今までのすれ違いなんかよりも、これから迫り来る危機の方がよっぽど重要だ。本当に悪魔って分からない。人間の病院で大丈夫だろうか。
 グルグルと明日の予定を立て始めた雪男に、燐がなら白衣で良いから、患者×医者で良いから! と縋ったりしていたのだが、雪男は嗚呼もう本当に此奴は救えねぇ悪魔だなと思っただけでまるっきり相手にしなかった。
 後日、結局先に惚れた方が白旗を揚げることになったのだが、どちらが先に惚れたのかは本人達しか知らないことである。





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