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【青の瞳(1)】


 傘は持っていなかった。
 九割の確率で夜から雨が降ると言われていたのに傘を置いてきたのは、仕事場であるカフェ『トレミー』から駐車場まで徒歩二十秒も掛からないからだ。

「車の傍まで送ろうか、ハレルヤ」

 カフェの裏口の戸が閉まる。すぐに傘を差したアレルヤが言って、俺を傘の下へ入れてくれた。頭上にある小さな屋根では、雨を塞ぐには少し小さい。

「いらねぇよ。すぐそこに見えてんじゃねぇか」
「そう。滑って転んだりしないでくれよ」
「そりゃあおめぇだろ」
「はは、それもそうだ」

 じゃあまた明日、とアレルヤは歩き出す。明日もまた俺は、トレミーでアレルヤと共に厨房に篭ることだろう。
 俺は適当に返事をしてそれとは反対側へ足を踏み出した。視界に入っている黒の愛車が近付く。夜の暗さのせいで足元が見えず、踏んでしまった水溜まりが靴とジーンズを濡らした。
 運転席のドアを開けて車内へ身を滑り込ませ、助手席に鞄を放り投げた。さっさとドアを閉めれば思いのほか強い音が発ってしまう。

 僅かに届いている街灯が、車中をじんわりと明らめる。ハンドルにかけた右手へ意識がいった。その薬指で白金の指輪が弱く光る。

 我ながら気色悪いとは思うが、相手の仕事のスケジュールは事細かに把握している。ただし女関係はほぼ把握できておらず、今日、彼がこの夜空いているのかいないのか、それは訊ねてみなければ分からないのが常だった。
 お互い先約を破るようになってから一年以上は経つし――例えば、これから会う約束をしていたとしても『同僚の女に食事へ誘われたからごめん』と一言言われれば、自分は『分かった』と返すだろう。そもそも、今はもう約束を交わすことも滅多になかった。

 俺は鞄から携帯を取り出して、一週間ぶりに見る電話番号へ着信をした。毎週土曜日の夜は電話を交わす。先週はあっちに予定があった。日曜日の夜に顔を合わせれば首元にキスマークがあった。気持ち良くなかったと感想を述べられた。

『――お疲れさんか?』

 いつも聴くたびに、ニールの声が好きだと思う。ハンドルに腕を乗せて若干背を丸める。

「車ん中」
『そうか。俺もそろそろ帰るぜ』

 時間を確認すれば八時近くだった。

 トレミーは六時に閉まる。三年前は夜八時まで営業をしていたが、店主のスメラギ・李・ノリエガが結婚をして営業時間を二時間も短くした。彼女はリビシという新しい姓を持ったのだ。短縮された営業時間の中でも、売上は然程変わらなかった。わざわざ通い慣れた時間をずらし訪問してくれる客がたくさんいた。

 一年前に大学生のフェルト・グレイスがバイトとして入ってきたあたりから男の客が妙に増え、案の定売上は上がっていった。定休日はフェルトに合わせて火曜日から水曜日になった。

「この後予定あるのかよ」
『何も』

 会おうか、とニールが付け足すことはない。俺はポケットから引っ張り出したキーを差し込み「分かった」と答えた。車が唸る。ニールが好きだというこの音の良さは、残念ながら俺には微塵も分からない。

「一回帰って、それから行く」
『オーケイ。先に帰れなかったら悪ぃな』
「いいや。んじゃ後で」
『おう』

 通話を断って携帯を鞄の上へと投げ捨てる。ストラップも何もついていない白の携帯は、余分な音を発てずに落下した。

 俺らの関係はおそらく『恋人』というもので。
 どこが普通と異なっているかと云えば、男同士であること、ペアの指輪ではないこと、お互い認めた上で女も抱くこと。きっと他にもたくさんあるだろう。

 三年前に、一度プロポーズをされた。俺は二十六歳でニールが三十一歳だった。
 同性に結婚を申し込むとは聞いたことすらない馬鹿げた話で、自分からすれば夢のようなことだった。だから彼を笑い、冗談はやめろと言った。

 自分達の周囲のために、普通の恋人を持って、普通に結婚をして、普通の家庭を築くべきだと。ニールとの関係を持ちながら、女とも何度か付き合った。全部駄目だった。どの女と関係を持とうが、自分が戻って行く場所はニール・ディランディの元だった。



 同棲をやめ、俺が新しい住居を持ったのは二年前だった、と思う。暫くはお互い相鍵を所持していたが、いつしかそれも返し、今はもう手元には残っていない。周囲の目を気にしてしまったから、という理由はあまりにもくだらないかもしれないが、それが原因だった。
 ニールから離れられない俺が選んだ住まいは、彼の住居から徒歩五分ほどのマンションだった。

 俺は六階一番奥にある部屋のチャイムを鳴らし、ニールが帰宅していることを願う。すると、十秒も経たぬ間にドアが開き、顔を覗かせたのは二週間ぶりのニールだった。

「久しぶりだな」
「仕事は?」
「順調順調。そろそろ公開できそうだ」

 中へ入りドアを閉める。ニールがジェスチャーで、鍵閉めといてくれ、と俺へ云った。俺は鍵を閉めてから靴を脱ぎ、リビングへ向かうニールの背中を追う。

 ニールは車会社で働いている。上司にも部下にも同僚にも、あらゆる人間に慕われていることは話を聞くだけでも分かった。今はニールが中心となり、新車を造ることに励んでいるらしい。仮の車名はデュナメスと言っていた。

「飯は?」
「アレルヤとトレミーで食ってきた。おめぇは?」
「俺もラッセ達と食べてきた。ならコーヒーでも淹れるか? ミルクは二つで良かったか」
「…………ひとつ」
「はいはい」

 この男のこのからかい方は、いつまで経っても直らない。くくくと笑うニールは、リビングのドアを開けて俺を促し、自分はキッチンへと足を運んで行った。リビングの手前にあるキッチンから、ニールの鼻歌が聴こえる。俺はリビングへ入り、ソファに腰を下ろして息を吐いた。
 ライムグリーンのクッションに頭を落とし、上半身をソファに倒して天井を仰ぐ。ソファの傍にあるテーブルには栞の挟まれた文庫本が置かれていた。Answerというタイトルだった。中身を想像することはいささか難しい。

 電気の眩しさに右手を額に乗せれば、肌が指輪の存在を拾う。これは五年前に貰った物で、その時ニールへこちらからも渡していた。当時二十四歳だった俺にとってそれは少々痛い出費だったが、痛みを伴ったのは財布のみで、心の方はむしろその逆だった。お揃いではないというのに心底喜ぶニールの顔は、目蓋を伏せれば今でも鮮明に思い出せた。

「寝ちまったか?」

 こと、というコーヒーカップがテーブルに置かれる音で、俺は思慮から戻る。身を起こし首を横に振ってから、クッションの方へ身を寄せてニールの座るスペースを設けた。右隣に腰を下ろしたニールと自分との間には、十五センチ物差しが一つ置けるかもしれない。

「最近見てやれてねぇが、車の調子はどうだ。傷とかつけてねぇだろうな」
「調子は良いし、傷なんざつけるわけねぇだろうが」

 今俺が愛車としているあいつは、ニールが初めて手掛けたものだった。勿論彼から貰い受けた。走り始めて三年そこそこ。まだまだ元気で傷一つない。傷なんかをつけられた日には、一生では足りないくらい加害者のことを憎むだろう。

「厭きたら乗り換えて良いんだぜ」胸に重い槍が刺さった気がした。「ハレルヤ、黒より白の方が好きだろ」

「走れりゃ色なんざなんでも良いし、乗り換える程の金は持ってねぇよ」

 俺は平静を装ってコーヒーカップを手にし、それを口元に運んで平常より多めの一口を終える。
 カップを置く際に見やったニールの左手の薬指。
 何もないそこにチクリと心が痛むが、理由は理解している。指輪を常にしてしまっては、女との付き合いに問題が生じるからだ。
 これだけの美形で性格も良く、挙句の果てに年収も素晴らしい――その癖指輪をしていないとなれば、女など勝手に寄ってくるというものだ。

 だというのに、未だに女を一蹴し続けている理由はきっと俺と同じだと、自分に都合の良いことばかりを思い描く。

「そういや、今日泊まっていくのか?」

 何気ないふうに訊ねてきたニールだが、その胸中はさぞ緊張している。そう思いたい。俺がそうだからだ。
 俺はコーヒーカップの水面に視線を落としたまま、一度は縦に下ろしかけた首を左右にやる。

「明日も仕事がある」

 何年か前までは、仕事があっても夜は共に過ごし、朝は文句を零しながら出勤していた。今思えばひどく幸せなことだった。

「ああ、そうか。そうだよな」

 ニールが軽く笑った。
 テーブル上にあったテレビのリモコンを手にした彼は、電源を押してから適当にチャンネルを回して行く。知らないアーティストばかりの音楽番組、俺らより若い男女が主役の恋愛ドラマ、大人として見ておくべき報道番組。すべてこの気まずい空気を壊すためのもの。

「おっ」

 声を弾ませたニールは、チャンネルを固定してリモコンをテーブルへと戻す。動物をメインとしたバラエティ番組で、これはアレルヤが毎週楽しみにしている番組だ。どうやら今日はスペシャルらしい。明日のアレルヤはこの番組の話題で持ち切りだろう。

「可愛い」

 ニールはテレビ画面の中にいる子犬を差してそう言う。両手に余裕で納まってしまうだろう子犬を見ながら、ニールはその愛らしさに頬を緩めていた。

「すぐ育っちまうんだろうけど、飼いてぇなぁ」

 そうだな、と俺が同意を声にすることはない。
 そんなことを言って良い立場ではないと思うから。

 自分がどれだけニールの足枷になっているかなど、自分自身が同じ状況なのだから心底解っている。周りのために、自分達は一秒でも早く別れて、普通の家庭を持つことを選ぶべきなのだ。
 そうしなければならないという思考と、そうしたくないという思考の葛藤は、もう何年も続いている。この葛藤は、自分達の関係に決着をつけることでしか終われない。

 俺はテレビから目線を外し、ニールを見やった。思いがけず目が合い、少しばかり目を丸くする。いつから彼がこちらを見ていたのか、まったく予想もつかない。

「指輪してたらできる女もできねぇぞ」

 ああ、と俺は薄らと作り笑いを浮かべた。

「女と会うときは外してる」

 嘘。
 これを外してしまったら、ニールが本当に別れを切り出してきそうで。

 結婚したいと、言葉にする勇気はない。それに言葉にしてしまうことで、長年のニールの葛藤を無意味にするのではないかと。

 自分は気付いて欲しいのだ。こちらが結婚したいという意思を抱いていることを。
 その上であとはすべてをニールに委ねたい。
 二度目のプロポーズをされたら、一秒の間も置かずに真剣に返事をしたいと思っている。

 傍からすれば、冗談と流して一度断ったくせに何を、と笑い話の種にすらならないだろう。
 それでも、待つ勇気しか持てない俺を許して欲しいと言ったら、その時ニールは微笑んでくれるだろうか。


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【青の瞳(1)/110905】




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