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パンドラの海、罪人は沈む。




【act.1:銀のとばり】





全身が酷く痛む。血も吐いた。
息が抜ける様な浅い息遣いと、失血からくる貧血に意識が薄れ掛けていた――その時。気配なく、“気配”が現れた。


「なあ、おまえ死ぬのかぁ?」

癖のない銀色の髪が月明かりに照らされ、悩ましげにゆらゆらと靡く。切れ長の涼しげな灰の瞳は丸く、好奇心からか不思議そうに此方を覗いている。返事がないオレに向かって『なあ』と再び呼び掛けた。
こいつは何だ?いつから此処に。

「どこも血だらけだなぁ……痛いかぁ?」
「…………」
「喋れないのか?」
「……べらべらと、うるせぇんだよ」

初対面だというのに――ましてや血だらけの男を相手に警戒するでもなく、妙に気軽い語り口でべらべらと喋りながらオレの様子を窺ってくる。
オレにこんなに気安く話し掛けてきた奴は、こいつが初めてだ。
まぁ、今のオレはただの死に損ないに過ぎないが。


「お、喋った。へえ……そーかぁ、なるほどな」
「……んだよ」
「想像していたまんまの声だったから、ちょっち面白かっただけだ」

そう言ってクツクツと喉を鳴らして笑った。無邪気な笑顔だ。
何が楽しいかわからないが緊張感のないこいつの態度に妙な感情を抱く。今まで感じた事のない、――“妙な”安心感を。
見詰めた先の髪がふわりと浮いた次に、視線の高さが等しくなる。屈み込むついでに奴が距離を詰めたからだ。

「なあ、おまえ何でそんなになってんだぁ?ここいらは人なんざ住んでねぇ奥地だ。なんでそんな身体で此処に来た」
「居るじゃねーか、てめーが」

人が住んで居ないらしい場所に住んでいるこいつに言われても、何となく釈然としない。それに、人が居ない方が好都合だった。
――オレは誰も信じねえ。


「オレは違う、人じゃねぇ」
「はぁ?」

からっと何でもない調子で言われたが意図がわからずに、ただただ独特な光を放つ瞳を見詰め返した。すると此方の心意を察したのか、徐にオレの左手を取った。血が滲み、肌の変色している其処にそうっと舌を這わせる。触れた手もそうだが、舌も冷たい。その柔らかく湿ったそれが肌をなぞる度に、どうした事か。刺すような痛みは消え失せ、活動を停止していた血脈が動き出すのを感じた。血液の流れを確かに感じる。

「てめえ……何をした?」
「舐めた」

酷く簡潔に当たり前な事を言われ、眉間に力を込めた。言い返すのも馬鹿らしいので放っておいたら、今度は右手を取って丁寧に舐め始める。心地の良い温度と、目の前の得体の知れない男の愛撫の様なその行為に、今度は別の思いが芽生えていくのを遠巻きに感じていた。
それからオレのシャツをはだけさせ、腹部の傷痕をなぞっていく。見詰めていると妙な気分になりそうだからと、仕方無しに夜空の月を仰ぎ見る。眩しいくらいに光る月が照らす中、言葉もなくオレ達は共に在る。

この不思議な感覚は嫌いじゃねぇと思う。それはこいつが触れた時にわかった。他人から触られて嫌悪を覚えなかったのも、初めてだった。


「……ここも、」

頬を舐めていたこいつはそう言って、ぺろっと唇を舐めてきた。二度三度、舌先が其処をなぞった後――どちらともなく唇を重ね舌を絡め合う。オレの舌がひんやりと冷たい奴のそれに触れた瞬間、びくりと小さく肩が震え微かな吐息が零れた。その反応がやけに新鮮で、頭を引っ掴むと呼気を奪う様な口付けを交わした。
……どれ程の時間が経ったのか、漸くとオレが離れた時にはすっかりこいつは腕の中に収まっていた。あちこち細っこい。

「悪ぃ、さっきの嘘だぁ。したくなって嘘ついた」
「知ってる」

オレの肩へ顎を乗せ、投げ出した脚をばたばたさせながら悪戯っぽく声色に笑みを滲ませる。思ってもいない癖に『怒った?』なんて顔を覗いてくるから、コツンと額をかち合わせてやる。

「いて」
「てめーは嘘つきだ」

そうだ、と笑いながら触れるだけの口付けを交わす。心地の良い感触だ。
幾度も触れるばかりの口付けを交わした後、急に真面目な顔をして男は口を開いた。その合間も、奴の右手は飽きもせずオレの髪を弄っていた。



「オレと、来ねぇか?誰も居ない場所で、2人だけで……」
「悪くねぇな」

本心だった。やけにあっさりと、すんなりと、口から零れ落ちた。
二つ返事なのに驚いたのか、はたまた別の意図があるのか、途端に嬉々として笑顔を見せる。そんな笑顔の灰の瞳は、何処かすがる様な切としたモノが浮かんでいた。その感傷が酷く、支配欲を掻き立てた。

「ホントかぁ!?ホントに?……オレだけのモンに、なってくれるかぁ?オレだけを……」
「てめーの好きにしたらいい。どうせオレはてめーに会わなければ死んで居たんだからな……施しだ、くれてやるよ――オレを」

そう言うが早いか、オレの首にしがみついて男は囁いた。
『やっと見付けた』と、何度も何度も……甘美で蠱惑的な声で囁いた。





“それ”が意味するモノなど、どうでも良かった。
初めて見るこの銀に輝く麗人をオレの手に出来るのならば、それだけで良かったのだ。その代償が身体だろうが命だろうが――何でも構わねぇと。

そう思っていた。









オレはこの日、
初めて『銀』と出逢った。






――2009.09.11.

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