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−輪廻を通じて続く戦いがここに開幕する。


全てのモノに始まりがあるように。全てのモノに終わりが来るように。我らの世界もまた計算された形を守り続けている。時のねじれの中にあるとされる我が世界、ロッチェ・インテー。万物が有する理解の範疇を超えた世界。星という概念すら与えられなかった孤独の世界。全ての生命の根源である世界。


ロッチェ・インテーを形成している二つの存在。それこそが世界の始まりと、終わり。世界の始まりとされる光の集合体、クワルツォ。世界の終わりとされる光の吸収体、ビオティーテ。その相対する二つの塊がバランスを保ち、ロッチェ・インテーの均衡を保っていた。


クワルツォには多種多様な生命が生息し、巨大な都市が形成されている。飛び交う建物や木々や植物が、その時その時の世界を造っていた。めまぐるしく変わる都市というのは、まさにこの事である。都市の時間は流れるように早く、その時間に乗れない者は世界には必要とされない。


クワルツォをオセロの白だとすると、ビオティーテはオセロの黒である。


クワルツォの裏にある世界こそがビオティーテである。生命の命が尽きる時、彼らの行く末がここであるとされる。生きたものが踏み込んだ事の無い世界に見るものは、いったいなんなのか。それを知る者はまだいない。クワルツォとビオティーテが背中合わせに輪廻の輪で繋がる、それがロッチェ・インテーの全貌。全ての世界はここから生まれ、ここで死す。


聞いた話では、世界のどこかにチキュウという生命体が存在すると言う。我々の認識からすれば、そのチキュウもまたロッチェ・インテーの一部である。彼らの言葉を借りるなら、ロッチェ・インテーこそがチキュウの母であり、チキュウはロッチェ・インテーという母体の中の胎児である。


チキュウという生命体はまだ世界に産み落とされていない胎児だ。彼の生きた46億年という月日は、我々の時に換算すると指を折るまでもない。チキュウという生命体に生まれた「ヒト」という生命体は、到底理解できないであろう。彼らの母体であるチキュウがまだ生まれていなかったという事実に−。


母の生が尽きたとき、中に生きる子はいったいどうなってしまうのか。両方の命が尽きるか、それとも片方の命がもう片方の命を救うか。選べるのはいつも母であり、子ではない。


さまざまな問いを答える時、必要なのは自分の意思を貫く事だ。導き出した答えは必ずしも正解と等しいわけではない。どの問いも不正解があるからこそ正解が必要なのだ。


死ぬ為に生まれる生命が、生まれる前に死ぬ事は世界の道理に合わない。


全ては世界が教えてくれる。ロッチェ・インテーという世界が教え、それを受け入れる。だがそれを拒絶する権利も持ち合わせている事を忘れてはいけない。全ての母であるロッチェ・インテーが母であり続けるために必要な事。


クワルツォとビオティーテの均衡が崩れようとしていた。世界の始まりが、世界の終わりの一部になろうとしている。二つを繋ぐ輪廻の輪にゆがみが生じ、表と裏が繋がろうとしている。


今はまだ、その事実を知る者は我だけ。




ロッチェ・インテーの体内のチキュウ。チキュウの中に生まれた世界ニホン。ニホンの中で生活する人間の母親。その母親の中で生を待つ胎児達。その子の一人が母親のお腹を蹴った。そう時間はそれだけで十分すぎる。


これは世界を造った世界の話し。


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