Under
1
「……うぅ……気持ち悪ぃ」
マンションの自室へ到着したオレは、掌で口を覆いながら呟く。
靴を脱ぎ、ノロノロとトイレを目指す。気持ちは急いているが、緩慢とした動作になってしまうのは仕方がない。走ったらアウトだと、体が訴えているのだから。
「蜜、そこ、足元気を付けろ」
オレの背を支えながら部屋へと入って来た志摩は、甲斐甲斐しく注意を促す。居間を横切る際、ローテーブルに向けて放った車の鍵が、シャリンと音をたてて着地した。
ようやっと到着したオレは、崩れ落ちるように床に座り込み、便座を抱えて嘔(え)吐(ず)く。
吐きたいのに吐けず、生理的な涙が込み上げる。胃液の味が咥内に広がり、更に吐き気は加速した。
「吐けないのか?指突っ込んでやろうか」
「止めてくれ……オレのライフが一瞬でゼロになるわ」
ぐったりと便座に寄り掛かっていると、大きな手がオレの背を擦る。自業自得だ、と説教めいた口調とは裏腹に、撫でる手付きはどこまでも優しい。
背中から伝わる温もりに、少しだけ苦痛が緩和された気がした。
「……志摩、ごめん。もう大丈夫だから、さき寝ていいぞ」
「馬鹿言うな、酔っ払い」
苦々しい声とともに、後ろ頭を軽く小突かれる。
次いで衣擦れの音と共に、肩に暖かな重みが乗る。視線だけで確認すると、志摩が今まで来ていたジャケットがオレの肩に掛けられていた。
「水汲んでくる。ちょっと待ってろ」
「おー……」
女の子だったら、一瞬で恋に落ちそうな紳士っぷりを発揮する男の名を、潮志摩と言う。高校からの同級生で、現在のルームメイトだ。
元々寮生だったオレは、高校卒業を機に一人暮らしを始める予定だった。だがオレと同じく都内の大学に進学した志摩にルームシェアを持ちかけられ、今に至る。
ちなみに大学は別。弁護士を目指す志摩とサラリーマン志望のオレでは、頭の出来が違い過ぎるんで当たり前だが。
大学二年目となり二十歳になったオレは、漸く解禁だと先輩達に、連日飲み会に連れ回されている。
断ろうにも年功序列の壁は厚く、しかも悪い人達じゃないので強くも出れない。酒はあまり強くないオレは、その度フラフラになるが、気が付いたら道端で寝ていたというケースは一度もない。
ルームメイトの志摩が、毎度車で迎えに来てくれるからだ。
遊び歩くオレとは違い、真面目に勉強する彼の邪魔はしたくないので、迎えにこなくてもいいと固辞したが、『なんの為に免許を取ったと思っている』と一蹴された。
何の為って、少なくともオレの迎えの為ではないのは確かだと思うよ、志摩さん。
「……う、ぐっ、」
こみ上げた吐き気に従い、嘔吐する。苦しくて涙が滲んだ。
何回経験しても、この感覚は慣れない。
「蜜、大丈夫か」
「なんとか……」
胃の中身が無くなった事で、さっきよりは随分マシになった。水を流してから、ふらりと立ち上がると、タイミング良く戻って来た志摩が、オレを覗き込む。
秀麗な美貌は、心配げに曇っていた。
「タオル……」
「まず洗面所で口すすげ。気持ち悪いだろ」
「洗面所……」
フラフラと足元も覚束無いオレは、志摩に誘導されながら進む。
言われたままにうがいをして、ついでに顔を洗う。薄く目を開けてタオルを探すと、待ち構えていたかのようにタオルを手渡された。
もふ、と顔を埋める。ふわふわな肌触りと、柔軟剤の優しい香りに癒され、目を閉じた。
「……ぅお?」
「おい!」
安定感を欠いた体が、ふらりと揺らぐ。
焦った声と共に、腕を掴まれる。ぼすん、と背を預けると、背後の志摩は大きく息を吐いた。
「蜜……あんまり驚かせるな」
密着している場所から、声の振動が伝わる。低音が耳に心地よい。
体の力を抜いて凭れると、志摩の香りが強くなる。清潔感に、凛々しさと僅かな甘さを併せ持つ匂い。最初は香水かと思っていたが、一緒に暮らすようになって、彼自身のにおいだと気付いた。
鼻先を志摩の首筋に近付け、すん、と鼻を鳴らす。
「……っ!」
良い匂いだなぁ、と身を寄せれば、志摩が息を呑む音がした。
体が強張り、腕を掴む力が増す。ごくり。間近にある喉仏が上下した。
「……しま?」
「…………」
どうしたんだろうと顔を覗き込もうとしたが、逸らされる。
いくら親友とはいえ、男に密着されるのは嫌だったのかもしれないと、オレは一言謝って体を浮かせた。
「……風呂沸いてるが、入れそうか?」
暫しの沈黙の後、志摩はオレに問う。
「眠い……けど、酒臭いから入る」
じゃあ着替え用意してやるから、入っていろと脱衣場に押し込まれる。
少し強引な志摩に首を傾げるが、結局は甘える事にした。
シャワーを浴びていると、樹脂パネル越しに動く影が見える。
屈んで拾う動作から推測するに、おそらくオレが脱ぎ散らかした衣服を志摩が拾い集めているんだろう。
新妻でもここまで甲斐甲斐しくはないだろうと、感謝と申し訳なさと僅かの呆れが混在した気持ちでオレはため息を吐き出した。
高校時代からの付き合いだ。志摩がクールな外見に反し、とても世話焼きで優しい事は知っている。が、一緒に暮らし始めてから、己の認識の甘さに気付いた。
潮志摩の趣味は、人の世話を焼く事なんじゃないかとさえ思う。
ルームシェアした当初、家事の役割分担は交替制にしようと考えていた。苦手なものと得意なものを考慮し、いずれは固定になるかもしれないが、最初は何でも週交替にしようと。
だが現在、家事の大半は志摩の役割である。食事も掃除も洗濯も、全部。
一応言い訳をさせてもらえるなら、オレ自身にやる気はある。が、志摩の方がオレの何倍も家事スキルが上だ。オレがやった方が早いし上手いと言われてしまえば、反論出来ない。
ごねにごねて、なんとか皿洗いと洗濯を干すのだけはオレの仕事になったが、それも気を抜けば勝手にやってしまう。
志摩はオレを甘やかすのが、とても上手い。
「ふぅ……」
体と頭を洗ってから、湯船に浸かり力を抜く。今日の湯加減も絶妙で、オレの好きな少し熱めの湯。いつか結婚したとして、嫁さんに同じだけの献身を望むのは、余りに酷だろうと思わざるを得ない。
ハイスペックな志摩のせいで、どんどん駄目人間になりつつある己を嘆きながら、オレはゆっくりと目を閉じた。
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