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リトライしますか?番外編
大切な人の事を『空気のようだ』と表した、本の一節を見た事がある。
空気のように、傍にあっても苦痛ではないという事なのか。
それとも必要不可欠で、なければ生きていけないという事なのか。
生憎、その本の主人公は、それ以上深く語ろうとはしなかったので、分からずじまいだが……。
前者だと軽すぎて、後者だと重過ぎる。
傍に馴染み過ぎて、いないと違和感を覚えるが、彼なしでも生きてはいける。
オレにとっての『潮 志摩』は、そんな存在だ。
「……蜜」
夢うつつのオレを、誰かが呼ぶ。
と同時に、さらり、と髪を梳かれた。慣れた感触は、起こすというよりは、余計眠気を誘う。
「起きろ、蜜」
艶のあるバリトンが、再度オレを呼ぶ。けれど彼は、柔らかく頭を撫でる事も止めない。
起こす気ねぇだろ。と悪態をついてやりたいが、眠気が勝る。
反論を諦めて、オレは睡眠をとった。こうなりゃ意地でも寝続けてやる。
「……みーつ」
呆れを含んだ声は、同時に笑いも含んでいた。
くしゃりと前髪をかき上げるのは、骨ばっている長い指。繊細な見た目に反して、意外と硬いのが、彼らしいと思う。
インテリ風なくせに、時々妙に男前な志摩らしい。
額を戯れのような軽さで数度小突かれて、オレはようやく瞼を押し上げた。
「……」
一番に目に映るのは、見慣れた親友の顔。
クセのないセピア色の髪の間から覗く切れ長な瞳が、オレを映す。ノーブルな美貌は一見無表情にも見えるが、形の良い薄い唇は、僅かに口角を上げ、笑みを浮かべていた。
「おはよう」
「……はよ」
不承不承といった体で、のろのろと体を起こすと、志摩はオレの髪から手を離す。
「あー……腹減った」
「だろうな。もう昼だ」
呆れたようにそう言うと志摩は、自分の腕時計をオレの眼前に付き出す。
黒の文字盤に銀の針のアナログ時計は、昼休みの時間を指していた。
「今日の午前中の授業は、お前、殆ど寝ていたな」
大きく伸びをすると、咎める視線を寄越された。
「まぁね。昨日寝不足だったんだけど、大分頭すっきりした」
「……お前が居眠りをすると、何故かオレが担任に嫌味を言われるんだが」
悪びれずに言うと、瞳を伏せた志摩は、大きくため息をつく。
一応窘められているようだが、声には険が殆どない。
優しいというか、人が良いというか。そんなんだから、オレが調子にのるんだけど、それは言わないでおこう。
「ごめんねダーリン」
「お前、反省していないだろう。大体……」
「そんな事より。腹減ったし、学食行こ」
「……」
苦言を吐く言葉を途中で遮るように、オレは席を立つ。
志摩は無言で、眉間に深く刻まれたシワを指で揉み解す。けれどそれ以上言う事は諦めたのか、同じく席を立った。
「……」
「……」
食堂へ移動する間、志摩は無言だ。
元々あまり話す奴ではないが、流石に怒らせただろうかと、隣を覗き見る。オレより頭一つ分大きいので、見上げる形なるのが癪だ。
綺麗な横顔は、何時も通りの無表情。別段怒っている様子も無い。
「…………、」
志摩の横顔を窺っていると、オレ以外にも沢山の人が、彼を見ている事に気付く。
横を通り過ぎた小柄な少年は頬を赤らめ、教室の扉の影から覗いている子らは、熱のこもった視線で見つめる。ひそひそと囁く声に、志摩の名を何度も聞いた。
本当、心底モテる男だ。
端正な顔立ちに、細身で引き締まった体躯。加えて立ち振る舞いは美しく、性格はストイック。
まるで物語に出てくる騎士のような志摩が、モテない筈がない。
同じクラスの連中に『よくお前、アイツの隣にいられるな』と言われた事があった。
言った本人らは嫌味ではなく、寧ろ同情している風だったが。
志摩の隣に立って、見劣りしない男なんて極稀。
ようは、フツーな顔のオレが、引き立て役になってしまう事を、心配してくれた訳だ。
まぁ実際、なっていると思うよ。引き立て役に。
でも不思議と、傍を離れたいと思った事は、一度もなかった。
「…………」
志摩の隣は、息がしやすい。
穏やかで、静かで、独特の世界を持つ志摩の隣が、オレは好きだ。
この場所を確保する為ならば、多少の陰口や敵意丸出しの視線程度、全く気にならない。
「……蜜」
「ん?」
端正な横顔を堪能していると、志摩がおもむろに口を開く。
こちらを見た彼の顔は、相変わらず無表情だったが、少しだけ憂いを帯びている様な気がした。
「なにか、心配事でもあるのか」
「…………なんで?」
生真面目な顔でそう問われ、オレは数秒沈黙した。
言葉の意味は分かる……が、いまいち、経緯がわからない。何故急に、悩みを聞かれた?
「さっき、寝不足だと言っていただろう」
「あぁ」
成る程。
教室で言った事、覚えていたのか。
軽く流されたと思いきや、気にしてくれていた。そんで真面目くさった顔で、考えてくれていた訳だ。
基本能天気なオレが、寝不足になる理由を。
「心配事なんてないよ」
「……蜜」
軽く言うと、叱るように名を呼ばれた。
鋭い視線と険しい表情。……だが怖くはない。だってそれだけ、オレを心配してくれているって事だから。
オレは苦笑して、もう一度否定した。
「悩みがあるから寝れなかった訳じゃなくて、ちょっと夢見が悪かっただけだ」
「嘘を吐くな」
ちゃんと理由を言ったのに、志摩は間髪入れずに切り捨てる。
嘘って決めつけられて、オレは呆気にとられて目を丸くした。
「夢如きで左右される程、繊細じゃないだろう」
「酷っ!」
言うに事欠いてそれか!
思わずオレは、志摩の脇腹を軽く殴った。ぼす、と埋まった拳は、硬い腹筋に阻まれる。
ノーダメージの男前を、半目で睨み付けた。
「オレだって、悪夢に魘される事くらいあるっての」
「…………」
不貞腐れるように呟くと、今度は否定されなかった。
再び無言になった志摩を一瞥し、もうこの話は終わりだと、オレはため息一つで切り上げる。
けれど志摩は、尚も話を続けた。
「どんな夢だ」
「は?」
「どんな夢に、魘されていたんだ?」
そんなに掘り下げるような話題でもないのに、真剣な顔で聞いてくる志摩に、オレは驚きを隠せない。
唖然とした顔で、数度瞬く。
「どんなって……」
呟くと同時に、脳裏に蘇る光景。
それを振り切るように、首を横に振る。
「……大した夢じゃない」
「蜜」
忘れようと努めているのに、許さないとばかりに追い詰められる。まるで見透かすみたいな目が、ひたとオレを見つめた。
居心地の悪さに、視線を逸らす。
「本当、たいした事ないんだ」
重ねて言ったのは、志摩に向けてというよりは、己に言い聞かせる為だったかもしれない。
悪夢といっても、幽霊やら化け物が出てきた訳じゃない。
殺されそうになったとか、誰かを殺してしまったとか、そんなんでもなく。
言うなれば、日常の続きのような、現実との境目が曖昧な夢だった。
オレは朝起きて学校に通い、夕方帰る。
そんな何気ない日常。
――ただ、
「……蜜」
俯いていたオレは、後ろから頭をグシャグシャと撫でられ、瞠目した。
近距離で名を呼ぶ声は、苦さを含みながらも、底抜けに優しく。
覗き込んでくるセピア色の瞳は、オレへの慈しみが溢れていた。
「言いたくないなら、聞かない。でも一人で悩むな」
「志摩……」
「少しは頼りにしろ……こんなに傍にいるのに、寂しいだろうが」
少し不貞腐れたみたいに、そっぽを向いた志摩に、オレは一拍置いて破顔した。
なぁ志摩。お前は笑うかな。
何の面白みもない、平和な日常風景のなかに、お前がいなかった……それだけで、朝まで眠れなくなるオレを。
お前がいなくても、夢の中のオレは普通に暮らしていた。
空いた席に違和感を抱きつつも、お前の名すら思い出さず、平和に過ごしていた。
それが例えようもなく恐ろしかったなんて、お前は笑うか。
「充分頼りにしてる。相棒」
「……そうか」
笑ってそう言えば、呆れと照れが入り混じった顔で志摩は苦笑した。
「遠慮なく寄り掛かれ。お前一人位、片腕で支えてやるから」
「偉そうだなオイ」
照れ隠しのように、志摩はわざと傲慢に言う。
耳が赤いから、格好つかないぞ、と指摘してやろうかと思ったが止めた。オレの耳もきっと、同じ位赤いだろうから。
「そこまで言うなら、頑張って支えてもらおうじゃねぇか。オレの重さに潰れんなよ?」
その時のオレは、ふてぶてしく笑ってそう言った。
その数日後に、死ぬ程後悔する事も知らずに。
ありふれた日々の尊さを、理解せずに。
――空気は疾うに、欠かす事の出来ない、重い重い存在になっていると、気付く事も出来ずに。
酸素欠乏症
(失くす前に、気付けば良かった)
(もう、遅すぎるけれど)
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