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カランコロン。

グラスの中に囚われた氷達が涼しい音を立てて回る。まんまるとした月が薄暗い雲に隠れて、ぼんやりとしたその輪郭を揺らした。今宵は月見酒だ。


「なァ、」

「なんですか?」


隣に静かに佇むこの人の、ウイスキーをぐっと煽る音が聴こえる。


「人間はなんで欲しがりあって傷つけあうんだろうなァ」


普段はひどく冷静で合理的な彼の口から出た人間くさい台詞に私は驚いて、その精悍な横顔を思わず見遣る。マルコ隊長の視線は変わらず暗闇と同化した海に注がれ、その横顔は朧月の儚く淡い光に照らされている。私には彼のその横顔を見詰める事が躊躇われた。何故か、いつもは力強く逞しいそれは、今はとても脆くて、見詰め続ければ壊れそうな気がしたから。その代わり、彼の眼に映るものを私も見てみたくなって、外した視線を彼と同じほうに向けると、暗い海と空が闇の中の水平線に交わっている。水平線は何処までも曖昧で、この暗闇は永遠に続いていくような気がした。



「なんてな」


ふふ、と醒めたように彼は笑う。最後の言葉はつい呟いてしまった本音を掻き消すため。それくらい私にだって解る。ずっと隊長の横にいたんだもの。笑った横顔もほんとうは哀しそうで、今此処で気の利いた言葉のひとつやふたつも出てこない自分がひどくもどかしい。


「…上空に上がる時って、どんな気分になるんですか?」


咄嗟に私は前から訊いてみたかった質問を彼に投げ掛けた。何とはなしに。私が一生知ることはない感覚を、この人は知っている。


「さァ、どうだろうなァ…一緒に飛んでみるか?」


遠くから、勝利の美酒を交わす音や陽気な歌声が織りなす祭のような喧騒が風に乗って私達の元まで届く。それはどれも遠く曇っていて、楽しそうな声の分だけ、私を寂しくさせた。


「飛べるものなら飛んでみたいです」


隊長の背に乗るなんて、一生叶わない夢だ。実体がない不死鳥は全ての物体をかわしてしまうから、覇気なんてものは使えない私では、すり抜けて海に落っこちてしまう。

ふ、と暖かく微笑んだ視線と共に、私の頭を柔らかくゆったりと撫でる大きな手。その手が優しければ優しすぎる程、私の胸はぎゅう、と締め付けられる。切ない感情を抑えきれずに、ただ唇を噛んで俯くしか、私には為す術が無かった。


「海賊なんてものは」


俯いたまま、自分の足先に意識を集中して、胸一杯に去来した感情をどうにか飲み下す。



「強欲でどうしようもねェ生き物だ。奪っても奪っても奪い足りねェ。金銀財宝、女、果ては命すらもだ」



「…それが海賊の定義なんじゃないんですか?」



目を閉じて、呟いてみる。まだ、優しすぎる大きな手が私の頭の上に在る事にほっと安堵を覚えながら。


ふ、そうかもなァ、マルコ隊長の手が、私の頭を撫でる代わりに、少し潮風で傷んだ私の髪をゆっくりと上から下へ滑っては、また上へ戻って滑っていく。

そんな事は私に言われなくっても、マルコ隊長はとっくの昔に解りきっている事だろうし、諦めきっている事だろうに。ゆるゆると後悔に襲われる私の脳裏に今日の戦場が甦る。


マルコ隊長の仕事は一刻も早く相手の頭目の首を取りにいくことだ。

戦闘において最も重要な役割。


上空まで一直線に駆け上がって数秒止まれば、刹那、相手めがけて真っ直ぐに真っ直ぐに。

相手に気付く暇すら与えない。一瞬で終わる。



頭を失った蛇は迷走する。士気が下がり、船員同士の固い結束は徐々にしかし確実にほだされる。

無用な戦闘は避けたい。血が騒ぐと眼を輝かせる者もいるが、マルコ隊長はそれとは違う気がした。力を出さずに済むなら出したくないし、出来ることなら戦いたくない、隊長が相手に向かっていく時に一瞬だけみせる哀しそうな横顔がそう感じさせた。


「空に浮かんでいるとなァ、」


ああ、マルコ隊長も同じ情景を思い出しているんだ。やっぱり止めておけばよかった、あんな質問。


「この船の連中も敵船の奴らも蟻みたいに小せェんだ。こいつら一人一人にそれぞれの人生があると思うとよい、吐き気がするほど気が遠くなる」


両腕に寄せた膝の間から見えるマルコ隊長の脚はじっと動かない。俯けた私の顔も、じっと動かない。


「こいつらの誰が死のうと生きようと、俺の人生は俺の意思に関係なく進んでいく。そう思ったら、」


隊長の発する次の言葉が、解った。言わせてはならない、何とかして掻き消さなければと思うのに、声が出てこない。





「独り空に浮かぶ俺は間抜けなもんだなァ」





「…隊長、呑みすぎですよ、もうお休みになられたらいかがですか?」


…違う、本当はこんな事が言いたいんじゃない。思ったより酷く冷たく放たれた自分の言葉が、ちくちくと私を傷付ける。



「…ああ、そうだな…じゃあ先に戻らせてもらうよい」



ぱさり。肩に感じた柔らかい感触。慌てて顔を上げて確認すると、そこには今さっきまで隊長が羽織っていたライトグレーのカーディガン。僅かに残った隊長の暖かな体温が私を優しく包んでくれている気がして、それが余計に私をぎゅうぎゅうと締め付ける。

ゆるゆると分厚い雲が朧月の淡い光を遮って、夜は完全に闇に包まれた。





ひどく騒がしい喧騒で目が醒めた。朝日が放つ白い光が薄く伸びる頃。部屋の窓を覗き込んだ私の眼に映ったのは、昨日と同じ凄惨な戦場だった。慌てて甲板に出てみれば、キィーン、刀と刀がぶつかりあって発する鋭い金属音があちこちで虚空に放たれる。


「どういう…」


しゅっ。後ろから殺気を纏って振り上げられた太刀の音がした。危機一髪。反射神経だけで何とかそれを避けきって、咄嗟に腰から愛刀を引き抜く。相手の長刀と私のそれの刃零れのする音が聴こえた。


「…よくもまァ、昨日は派手にやってくれたみてェだなァ…!!」


…これは報復だ。全滅させたとばかり思っていた。きっと昨日の敵船の傘下というところだろう。自棄になって突っ込んでくるところを見ると、もはや弔い合戦としてこの海に散るつもりなのだろうか。


脇を締めて大きく上段に振りかぶる。間合いは十分詰めた。私がこの一太刀を降り下ろせば、決着がつく。それはそれはあっけなく。なに、いつもやっていること。昨日も平気でやっていたことだ。

先程の相手の顔が醜く歪む。その瞳には、振りかぶる私の姿が映っている。死への恐怖と生への執着。相手の瞳にそれを見て取った瞬間に、急に私は吐き気を催した。

カランカラン。振りかぶった刀は相手の横側を無残に転がる。何故?私の意思に関係なく沸き起こる肩の震えが止まらない。

同じように身体を震わせていた相手が、力無く私の刀を握りしめて大きく振りかぶる。…ああ、それでいい、私は次の瞬間全身を襲うであろう激しい痛みを甘んじて受けようとじっと眼を瞑る。



「…なにをしてる!!」



震えながら待ち構えていた痛みの代わりに聴こえてきたのは、ビスタの叫び声としゅっと空を舞う華麗な花剣の音。



「しっかりしろ!!お前、どういうことになるのか分かっていたのか!!」



ビスタの叱責の声が聞こえる。わかってる。わかってるよ。…その時だった。止まらない肩の震えと共に、私の頭に入ってくる無数の黒い声。興奮、狂気、高揚、恐怖、思慕、そして虚無感。


いやだ、
聴きたくない。


その時、月夜に交わしたマルコ隊長の言葉が脳裏に浮かんだ。


『人間はなんで欲しがりあって傷つけあうんだろうなァ』


いや、やめて。


『強欲でどうしようもねェ生き物だ。奪っても奪っても奪い足りねェ。金銀財宝、女、果ては命すらもだ』


どんなに頭を振っても声は消えてはくれない。むしろ、声に包まれた無数の感情が溢れる程胸に流れ込んでくる。


『この船の連中も敵船の奴らも蟻みたいに小せェんだ。こいつら一人一人にそれぞれの人生があると思うとよい、吐き気がするほど気が遠くなる』


『こいつらの誰が死のうと生きようと、俺の人生は俺の意思に関係なく進んでいく。そう思ったら、』


これ以上耐えられそうになかった。助けてと顔を上げたその時、蒼い炎となったマルコ隊長が、敵船の頭目を貫いたのが見えた。隊長の蒼い炎がそれはそれは綺麗に朝靄に輝いている。隊長、やめて。蒼く輝く美しい炎がこれ以上汚れていくのを見ていたくなんかない。




その時、ふと思った。


ああ、そうか。
私があの月の晩、本当に隊長に伝えたかったことは。



わたしは


















そうすれば

一生貴方に寄り添うことができるから。

もう、あんな哀しそうな横顔をさせなくてもいいから。



つい数時間前の事なのに、あの月夜の会話が何年も昔の事のように思えて、ああ、もう私の声は届かないんだなあ、と失われゆく意識の中で、小さく呟いた。






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▼2010509
素敵企画サイト『Hello baby,』提出。声=秘める想いとして表には出ない孤独が描ければいいなと思いながら書かせていただきました。素敵な企画を立ち上げて下さった主催者様、読んで下さった方に感謝いたします。ありがとうございました。


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