[携帯モード] [URL送信]
ページ:1
シャカシャカ、シャカシャカ。イヤホンから流れる軽快なビート音。時折聞き取れる異国の言葉。猫のように丸まった背。組んだ両腕。それはいつもと変わらない通学の光景。寿司詰めになった人間達が、ぎゅうぎゅうと押し合いへし合い、この電車の一車両という小さな小さなハコの中で、必死に自分の居場所を保とうとギリギリのラインで均衡している。勿論、私もその中のひとりだ。









私は大抵同じ車両に乗る。降りた時に少しだけ昇降口から逸れる場所。みんな考える事は同じで、昇降口の真ん前はいつも混雑している。私はエレベーターを待つその長蛇の列を横目に軽々と階段を上っていくのだ。


今日もいつもと変わらず同じ車両の同じ扉から電車の中に足を踏み入れた。そのまま向かいの扉の前に陣取って、扉の窓から流れる日常の風景を眺める。よく効いた冷房から流れる冷気が、じとじとと絡み付いた汗を段々と冷やし乾かしていくのが分かる。吹き出る汗も段々と引いてきた。


私が通う高校に辿り着くには6駅掛かる。特快を使えば3駅だが…特快はとてもじゃないが乗れたものではないのでわざと見送る。通勤ラッシュのあの密度は殺人的だ。下手すると身体が浮くし…乗っている勤め人の方々は本当にすごいと思う。


駅前のビルとか住宅街とか踏切の信号が変わるのを待ってる車とか歩行者とかそういったものを見送ると、最大の鬼門である大きな駅に電車は到着する。この電車は前駅において車両点検の為2分遅れにて到着しております。乗客の皆様にはご迷惑をお掛けして誠に申し訳ございません。大抵この駅に着く頃には2分とか5分とか遅れが出てくる。そんな律儀に謝らなくてもいいのに。とりとめもなくそんな無駄な事について考えてみるが、はてさてその2分がある人にとっては人生で最高に重大な2分になるかもしれないのだ。例えばこの2分遅れのせいでこれから先3つある乗り換えに全て間に合わなくって、大切な商談に間に合わないとか。間に合わないのが分かってどうでもよくなってとぼとぼと駅の階段を上っていた時に絶世の美女にぶつかって運命の出会いとやらを感じるとか。…とか。


そんな訳、ないか。私達…いや、少なくとも私の日常はあくまでもいつもと変わらない枠の中をゆるゆると流れている。たとえ電車が2分遅れようと5分遅れようとそんな小さな誤差は神様も知っての通りであって。


ギィ、ガタン。向かいの扉が左右に開いて、どっと人の波が押し寄せてくる。くるくると髪を巻いたOLのお姉さん。新聞を片手によれたポロシャツを着たおじさん。白地に水色のストライプシャツをたくしあげて汗を吹くサラリーマン。大きな部活道具を抱えて談笑しながら手摺に掴まる学生達。


シャカシャカ、シャカシャカ。私は耳元から聴こえる軽快なビート音と共に両腕を組んで、ゆっくりと目を瞑る。背を凭れかけられる分、扉側という位置は恵まれている方だ。あとはこのままぎゅうぎゅうに寿司詰めにされながら、残る3駅をやり過ごせばいい。


…やり過ごせばいい、はずだった。はずだったが、何処かに感じる違和感。おかしい。いつもなら感じるあの、生暖かい人の熱気とか感触とかを今日は感じない。まるで私だけこの人々がせめぎあう空間からぽっかりと穴が空いたように守られているような、そんな感覚。


とうとう私はその空白の違和感の正体を確かめるべく、そっと瞼を上げてみる。瞼の先、30cm。そこにあったのは…眩しいくらいに白く映えるカッターシャツ。左胸に見慣れない校章が控えめに縫い付けられている。私の右側にはこんがりと日に焼けた逞しい左腕。少しうねりのある黒髪。私の真正面に立つその黒髪の持ち主は、目を伏せて右手で握り締めた英語の教科書をぼうっと眺めている。すっと通った形良く整った鼻筋。くっきりとした二重の線。下を向いた顔から辛うじて頬に可愛らしいそばかすがある事が見て取れた。伏された睫毛が長くて綺麗で、思わずそっと手で触れたくなる。


どうやら私は思いの外長い間彼を見つめていたらしい。私の視線に気づいたのか、その目蓋をそっと上げた彼とぱちり、寸分違わずお互いの視線はかちあった。


「お気遣いありがとう」


こんなぎゅうぎゅう詰めの車内でわざわざこれだけの空間を空けてくれているのだ。わざとなされた行為であると思っても、自惚れとはいえないだろう。思わず自然と、嘘も偽りもない笑みが零れた。


「…いえ、お気になさらず」


少し伏し目がちに教科書に戻された視線と共に放たれた、その他人行儀で素っ気ない返事とは対照的に彼の頬はみるみる赤く染まっていく。なるほど、これはおもしろい。


「…もう飛ぶまいぞ、この蝶々」


夜も昼も休まず、花の心騒がす罪作りな蝶々。…フィガロの結婚?彼が右手に握った教科書の捲られた裏のページから垣間見れる綺麗な英語の文章。オペラを教科書にするなんて。珍しい学校もあるものだ。


「ああ。英語の教師がオペラ好きなんだ。‘英語’の教師のくせに」


大学ではイタリア語専攻だったらしくてよ。まったく、生徒に自分の趣味を押しつけないでほしいぜ。そう思うだろ?その先生の趣味が満載された教科書から、漸く目を離した彼が同意を求めるように困り顔で私に問いかける。


「そう?私は好きよ」


特にこの部分が。彼の右腕を掴んで、近づいた教科書の上に指を這わせる。青年が伯爵夫人にいいところを見せようと懸命に自作の詩を歌うところ。恋への憧れに満ちた初々しくて美しい歌。


カンカンカンカン。電車は私達に構うことなく駅のホームへと滑り込む。どうやらタイムリミット、3駅通り過ぎたようだ。今度は私が凭れかかっていたドアが開く。日常へと戻るその前にもう一言。


「いつもこの車両に乗ってるの?」

「…いや、今日だけ。今日だけ一本早めに乗ったんだ」


たまたま乗り換えが上手くいって。彼は扉から左手を離してその黒く澄み渡った瞳でまっすぐ私を見据えて言った。


「じゃあ明日もこの電車に乗って。私は今日と同じ場所で待っているから」


どたばたと流れ出す人の波。いつもと変わらない朝の喧騒。締まるドアにご注意下さい。閉ざされたドア越しに覗く火照った彼の頬。なるほど、これはおもしろい。明日も私は同じ電車の同じ車両、同じ扉に背を凭れかけて、いつもと変わらず学校へと向かう。でも、たぶん、明日からはきっとすこしだけ違う日常が私を待ってる。














恋とはどんなものかしら














―――――――――――
▼2010729
なんだこれは…!笑設定に無理があったか…



[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!