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「よお、待ったか?」

「うん、待った」


なんて。嘘だよ今来たところ。そう返せばそうか、それはよかった。目を細めて彼は笑う。今日の空は見事に快晴。雨降んなくてよかったな。額に手を当てて眩しそうに空を見上げた彼に、日頃の行いがいいから。そう呟けばどの口が言うんだよ。ふたりで笑いあう。うん、神様も捨てたもんじゃないな、なんて。








大学に入って二年目の夏が来た。つい2、3日前のじめじめと鬱陶しい梅雨が嘘のように、昨日から待ってましたとばかりに太陽が張り切って燦々と輝いている。…へえ、ワゴン。大きいの借りたね。ああ、広々としてる方がいいだろ。彼の意見に賛成だ。せっかくのドライブだもの。つうっ、とその滑らかなボディを人差し指でなぞれば、ほら、早く乗れ。急かされるように助手席に押し込まれ、ばたん、と軽快な音を立ててドアが閉められた。ようやく訪れた開放的な夏休みに相応しい昼下がりが幕を開けたのだ。


エースとは高校時代に知り合った。同級生というだけで彼氏でもなんでもない。気の置けない数少ない友人のうちのひとりだ。彼の笑顔は相手に心底安心感を与えるらしい。太陽の日溜まりに集まるように、彼の周りには気のいい友人達が集まった。


「なにか聞きたい曲、ある?」

「じゃあエースくんおすすめで」


なんだそれ。そう口調は呆れながらも彼はすうっと出てきたデッキにCDをそっと乗せる。耳馴染みのよい外国のジャズ。聴いた事はあるのだが曲名までは思い出せない。それでも今日みたいな夏の日を歌った曲である事は、時折聴き取れる英単語からおぼろげながらも掴み取る事は出来る。センスがいい。感じたままに伝えれば、案外嬉しそうな顔をして彼はハンドルを握り、そのまま私達を乗せたワゴンはゆるやかに滑り出した。


今日の話を持ちかけてきたのは彼の方だ。もう随分と海を見ていない、たまたま話題に上った、いかに私が夏を満喫してこなかったか、という下らない話の一つを振ると、ありえない、今年こそは行けよ。彼は予想通りそう言い放った。しかし、私には片道3時間を埋めるだけの交通手段が無いのだ。免許もまだ取ってないし。口を尖らせて反論する私に、じゃあ俺が連れてってやるから。あっけらかんとこれまた彼は言い放った。


「エースに先を越された」

「お前も早く取っとけよ。どうせいつか必要になるんだし」


目線は前方向そのままに口だけ動かして彼は答える。エースの運転、ね。ぽつり、私も前を走る黒いプリウスを眺めながら口を開くと、俺の運転じゃ不安かよ?今度はこちら側を向いてはっきりとした口調で問いかけながら、彼は私を見つめている。


「ぜんぜん。むしろ安心してる」

「安心?なんで?」

「だってエースだから」


私を見つめる彼の瞳を見つめ返すと、…そうかよ、ぽつり呟いて彼の目線は再び前方に戻った。信号が赤から青へと変わる。ゆるゆると発車するプリウスに続いて彼もアクセルを踏み込む。前を走るプリウスは4人家族だった。運転している夫の横で奥さんが何やら地図らしきものを眺めては、時々話しかけている。後方にはじゃれあう男の子の兄弟がふたり。典型的な、いかにも幸せな家族の象徴のような光景だった。


すると彼はその4人家族を差し置いてさっさと交差点を曲がりきった。真っ白な雑踏。色とりどりの車たち。真夏の日射しにゆらゆらと揺れる陽炎。白い膜が張ったように霞む平凡なその光景は、どんどんどんどん後ろへ後ろへと流れ、とうとうウインドーの窓枠から消え去ってしまった。


「どうしたの?」


彼らしからぬ所作。そんな気がして思わずその横顔に問いかけたけど、返ってきた台詞は、別に、なんでもねェよ、ありふれた言葉だった。


「…そう」


私達を乗せたワゴンは人気のない幹線道路へと入り込む。くるくるくるくると横に伸びる灰色の柵は流れては消え、流れては消えを繰り返しているのに、鮮やかな緑を抱く遠くの山林は雄大なその姿を湛えたままで、ちっとも動かない。遠近のちぐはくなギャップに私はただただぼうっと眼を向けていた。いつのまにか、彼が選んだCDはぐるりと一回りしてまた同じメロディーを軽快に奏でている。


「なあ名無し、おまえさ、」


なあに?聞き返した私に彼は目線を向けずにただただ前を向いて、ハンドルを握っている。緩やかに右に曲がる道路に沿って彼のハンドルも緩やかに倒される。一定の間隔で途切れる白線が形を留める暇もなく、ワゴンに踏み付けにされるのが視界に入った。


「…なんでもない」


何かを躊躇う彼の言葉を追及する事はしなかった。彼は時折こうした様子を見せるのだ。ここで私が無理に言葉を引き出そうとしても、返ってくる言葉は彼の本心とはどんどんかけ離れたものに変わっていくことを、私は承知していた。


彼の代わりに今度は私が言葉を繋ぐ。どうして海がすきなの?夏が来たかと思えばほぼ例外なく海に入り浸る彼の事を、私ははっきりと踏み込んで訊いた事は一度もなかった。


「…なんでだろうな。なんでかわかんねェけど、すきなんだよ」


ずっと昔から傍にあったから。呟かれたその簡潔だが最も説得力を持つ単純な理由に、ああ、そうか、私はただただ納得する。お前は海がきらいなの?逆に問われた言葉に私は簡潔とは程遠い曖昧な返答しか出来ない。


「きらいなわけじゃない。ただなんとなく近づき難いだけ」


ほら、私には辿り着くだけの手段もないし。人混みは苦手だし。積み重ねる理由づけは、先程感じたちぐはぐな遠近と同じようにちぐはぐな気がして、私はそれ以上口にするのを止めた。


「それでもたぶんお前は気に入るよ」


自分から近寄りたくなるくらいにすきになる。どこか確信めいたその彼の物言いは不思議なくらいに落ち着いていて、自分の事なのに彼の言う通りになるのだと、その言葉を私は何故か不思議なくらい素直に受け入れた。窓から差し込む日射しは先程までの鋭さが嘘のように、柔らかな熱を発散しながらゆるゆると力を失っていく。陽が昇るまでは緩やかなのに、一度昇りつめたそれが落ちるのは早い。車を走らせてからとうとう3時間が経とうとしていた。


「もうすぐ着く?」


ああ。もうすぐ見える。いつの間にか右側にあった太陽は左に座る私の方へと移動して、ついさっきまで強く白く光っていたのに今は赤みを帯びて膨張していた。夕暮れが近いこの短い時間は私もすきだった。


最後に右に大きくハンドルを切ると、後は下り坂だけが残った。結局先程の人のごった返した交差点に居た事など考えられないほど、人気のないままに私達はこの道路を降りきった。


「着いた」


キキィっとブレーキの音がして、長らく走り続けたワゴンはとうとうその場に止まった。広く開けた視界にただただ言葉を失っていると、サンダル、脱いで行けよ。運転席から降り立った彼が大きく身体を伸ばして息を吐いた。








嘘みたいな光景だった。
岩礁と岩礁に切り取られた空に赤く燃える夕焼けが今、まさに暗く深い海へと沈みこもうとしている瞬間に、私達はいた。見える限りの地平線いっぱいにその姿をきらきらと映して、今日を照らし終えた太陽が眠りに就こうとしている。


「…きれい」

「ああ。きれいだな」


夕焼けに誘われるままに海に足を浸すと、太陽の熱を十分に吸い込んだ海水がゆったりと絡み付いた。いつのまにか私の背後にはエースがいる。潮風に靡く白いシャツからは、引き締まった胸がはだけてみえた。ざざん、波音が静かに静かにその場に優しく鳴り響く。


「気に入っただろ?」


うん。それはものすごく。振り向いて彼に言葉を返そうとしたその瞬間、彼は大きく眼を見開いて咄嗟に私に右手を伸ばした。


「…馬鹿だなあ」

「…ごめん」


いい、気にすんな。私を受け止めた彼共々、浅瀬の中に身体が浸る。後ろに手を付いたものの、ついこの間買った花柄の紺色のワンピースは海水に浸った部分だけ黒く変色している。太陽の熱を吸い込んでいるとはいえ、既に夕方だ。腕に浸る海面の下はひんやりと少しだけ冷たかった。


「怪我は…ねェな。よかった」


私の前に膝を付いた彼の白いシャツの端にちゃぷんちゃぷんと小波が寄せて、ゆらゆらとその白が魚のように揺らいでいる。ここはすぐに深くなるから、足を取られやすいんだ。初めにそう言っておけばよかった。そう眉を下げて謝る彼の右手が、海水に濡れて時折ぽたぽたと滴る私の髪を撫でる。彼の目線は私の髪の先を通って、ゆっくりと私自身に近づいていく。かちり、私の眼を見据えたその瞳は、ゆれるこの海と同じくらい深く穏やかで、そのくせ熱を帯びたように潤んでいた。


「…名無し」


嘘みたいに動けなかった。彼の口元は少しだけ哀しみを湛えたように弧を描いて、私の髪をゆったりと優しく撫で続ける。それはそれは優しく、壊れものを扱うように繊細なものだった。


「お前は俺といれば安心だと言ったけど、」


彼の手が漸く止まった。彼の右腕の所作が作り出していた規則正しい水音が止んで、辺りには遠く聴こえる波の音だけが聴こえてきた。


「俺はお前の傍にいて一度たりとも安心だと思った事はない」


彼の右手が私の左の頬に添えられて、その大きな親指が私の左瞼をゆっくりとなぞった。うん。そうだね。ずっと前から、その事に私は気付いていたけれど、気付いた事を知られるのは怖かった。


瞼をなぞり終えると、彼の人差し指が私の唇をつうっと途中までなぞって、ぴたりと止まった。彼の哀しそうに伏せられた形の良い睫毛が、可愛らしいそばかすの上にくっきりと影を作る。


「分かってんのに、ずるい女だ」


彼は最後まで唇をなぞりあげると、その手は私の後頭部にまわされ、そのまま強く私を引き寄せた。そして彼は静かに静かにその赤い鮮やかな舌で、もう一度私の唇をぺろり、と舐めた。まるで乾ききった花に潤いを与えるようにひどく優しく、そして早急に。


私にとって彼は海そのものだ。惹かれてはいるが近寄り難く、そしていつのまにか諦めを抱く。私には彼に辿り着く為の手段が無く、そして辿り着くまでに出会う障害は多い。ただ、彼にとっての私が、彼にとっての海と同じものであるか、それは分からなかった。私はそうであるのではないか、いやそうであって欲しいと心のどこかで願っていたけれど、いざその答え合わせをしようとすれば私の心がそれを拒んだ。母なる海が与えてくれるこの穏やかな安心感を壊すのは、私には躊躇われたのだ。


「お前が思っている通りだよ。だから」


もう少し、このままで。ゆっくりと倒された上身に私は抗う気持ちは起こらなかった。彼が初めて私に対して心からの安心を抱いてくれたのなら、私は私の精一杯で彼を包みこんであげたいと思ったからだ。穏やかにたゆたう二人の髪を波が揺らして、私はゆっくりと彼の首に腕を回す。溺れても、沈んでも、何があっても私はこの優しく震える海がすきなのだ。














例えば
海辺で囁いた愛とか















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▼2010723
なんだこれは…!笑



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