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「まァ、…いつまで一緒にいるかもわかんねェしな」


売り言葉に買い言葉。無益な意地の張り合い。それでも最後の言葉が、私の胸の奥を芯から凍らせていく。分かっている、そういう言葉を吐き出す度に傷付いていくのは私達自身だ。


「…そうね」


つん、とすました顔を彼は崩さない。これ以上は話し合う気もない、そう口にはしないけど、断固主張する表情だ。冷ややかに固まったその無表情を見ながら、私は考える。こんな表情をさせるのは何度目だろう。もう分からない。


こんな顔をされれば私は顔を伏せて、その場を去るしかない。感情に任せて罵る事も、悲しいと言って涙を流す事すら出来ない。他人が見ても、本人から見ても些細な子どもじみた喧嘩。でも確実にそれは積み重なって、確実に私達の距離を広げている。


「……」


たとえここで私が謝ったとしても同じ事だ。もうお互い何度謝り続けてきたか分からない。根本的な所が噛み合っていないのだからどうしようもない。喧嘩を重ねて絆を深められればいいが、逆に距離は広がっていくばかりだ。本当にどうしたら上手くいくんだろう。分からない。相談したくても、誰にも出来ない。もちろん面倒見のよいマルコや、少し頼りないが兄のように気に掛けてくれるエースに泣きついて散々愚痴を聴いて貰うことも出来るけれど、何だかこうも下らない喧嘩が続くと相談する事すら申し訳なくなってくる。それにそもそも誰かに聴いて貰った所で何かが変わる訳じゃない。だって演じる主役は私たちだけなのだから。誰も来ないようにがちゃり、ひとり部屋の鍵を掛けて反省会という名の回想を繰り返し続けるなんて、本当に馬鹿みたい。


私は彼が考えてる事も受けた痛みも与えられた悲しみも、何もかもを分かってあげたいのにこれっぽっちも分からない。同じように彼にも、私の考えてる事も与えられた痛みも受けた悲しみも全部分かってほしいのに、これっぽっちも分かってもらえない、伝わらない。一緒にいるのに、こんなに傍にいるのにどうしてこうも遠いのだろう。どうしてこうも寂しいのだろう。





船を、降りようか?


もう充分頑張った。どちらが正しくてどちらが間違っているかなんて、そんなのもういいじゃない。疲れきってしまったんでしょう?だったらもう船を降りて自由にひとりで生きていけばいい。そんな現実逃避以外の何物でもない考えが浮かんで、必死で両手を振ってそれを掻き消す。違う。私は恋愛に振り回されるような馬鹿な女じゃない。こんなゴタゴタのせいで船を降りるなんて、本末転倒もいいとこだ。


…でも。


今は彼の顔を見るだけで、きりきりと縛られているように心臓が痛む。一緒にいればいる程寂しさばかりを痛感する。私は彼を必要としているが、彼は私を必要とはしていない。必要とされていないのに、どうして恋人なんてものが務まるだろうか。


もういっそのこと船を降りたい。この船に乗る前は私だっていろんな仕事をこなしてきた。靴磨き、踊り子、コックに床屋。大丈夫、私は一人で生きていける。


「おい、」


意を決してベッドから跳ね起きて、善は急げとばかりに荷物を纏めようと大きなショルダーバッグに手を掛けた。


「…いるんだろ?」


投げ掛けられた言葉とは裏腹に佇む私に、無声音が静かに吐き出される。分厚い扉越しにもその溜息の深さが窺えた。


「いいか名無し。そのまま聴いてくれ」


クローゼットから取り出した大量の洋服を無造作に鞄に詰める。あっという間にそれは膨らんで、とてもじゃないが一人で持ち運ぶ事など不可能だ。


「確かに俺だってもういい歳した大人だ。お前が笑ってられるように、いつだってニコニコしてなんでもねェように余裕を見せるべきなのかもしれねェ」


これではいけないことを悟った私は、また一から荷物を入れ直す。本当に必要な物を、本当に必要な分だけ。


「でも、」


扉越しに聞こえる弱々しい声は聴かなかった事にする。今度はきっちりと仕舞われた鞄のチャックをジジジ…と閉める。


「どうしてもダメなんだ。お前にだけはどうしても優しい大人の男なんてものにはなりきれねェ。子どもじみてて呆れるくらいに意地を張ってしまう。たぶんそれがおれなんだ。おまえの前ではただの男でしかない」


おれはきらいだよ、…な。最後の言葉は静かに空気に吸い込まれて後に残るのはただただ無音だけになった。


準備は全て整った。生憎というべきか、この偉大な船は昨晩から大きな港町に停泊している。貯金もそれなりにある。手に職も付けている。今夜私がこの小さな窓から抜け出してしまっても、鍵が開けられるまで誰一人その事実に気が付かない。


「名無し」


私の名前をぽつりと呼ぶ声が聴こえて、それからずるずると布が擦れる気配がした。扉に凭れ込んだ彼が、その場に弱々しくしゃがみこんだのが私にも分かった。


「行くなよ…」


きっと彼は立てた片膝に乗せた右腕で、顔を覆って今にも泣き出しそうになってる。分かってる、いつも皆にそれとなく気配りして、いつも皆から兄のように慕われている彼がこんな情けない声で私を呼ぶ姿を私は知っている。


「お前には恰好のつかねェ男かもしれねェが、」


分かってる。私が彼に与えてきたように、私だって彼にたくさん与えられてきた。本当にたくさんの、


「呆れる程情けねェ所も弱い所も全部、」








「お前にだけは受け止めてもらいてェんだ。お前にしか、こんな姿見せられねェし、見せたくもないんだよ」


安らぎを。情けない程の弱さもやな所も全部ひっくるめての私を、彼は彼のやり方で懸命に包み込もうとしてくれてた。時にはぶつかって離れて嫌になっても、きちんと戻ってきてくれた。これが余裕を漂わせて何処までも寛容な大人の男だったらどうだったろう。寂しさなんかじゃ表しきれない。私はきっと何処までも届かない孤独感で傍にいることすら耐えられなかったに違いない。


「…名無し」


何の前触れもなく開いた扉の隙間から飛んできた、パンパンに膨れ上がった鞄が当たっても、いつもと変わらずに私を見つめ返すその瞳。大人になれない男。そしてそれ以上に素直になれない女。強く引き寄せられる私の身体。彼の暖かい腕の温度。その顔は今日だけは弱々しいけれど、うっすらと涙を溜めて私を見つめるその視線に宿った愛おしさは変わってはいなかった。











素直になれない女

大人になれない男










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▼2010718
Yes,Sutch he is !



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