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トントン。傷がつき年季の入った焦茶色の扉を軽く叩くと、入室を許可する返答が、よく通る少し低い声で聴こえてきた。



















「名無しか、どうした?」

「実はマルコさんにひとつ、お願いがありまして」

「…なんだよい?」

「髪を、切ってほしいんです」






というわけで私はマルコさんとふたり、澄み渡った快晴の青空の下で、私は椅子に座り、彼はハサミを持ちながら会話を交わしている。初夏の日射しが少しだけ眩しい。つがいだろうか。カモメが二羽、気持ち良さそうに海風に乗って、空を泳いでいった。


「…失恋かい?」

「ははっ、マルコさんは勘が鋭いからいやですね」

「そりゃわるかったよい」


優しい微笑を口元に浮かべて、マルコさんの指先が私の髪に触れる。気持ちがいい。変に遠慮したり、距離を取ったりしないマルコさんの態度も気持ちがいい。憂鬱な気分も、何処までも続く青空に吸い込まれていくような気がした。そう思うと同時に、マルコさんが私の髪に、すうっと櫛を通していく音がする。


「綺麗な髪、してるなァ」

「ふふ、そうですか?」

「ホントに切っちまって、いいのかい?」

「ええ、おねがいします」


後ろに回ったマルコさんがバッサリとハサミを入れたのが分かった。思いの外、長く伸びていたようだ。なんとなく重い枷が取れたようで、身体が随分軽くなった気がした。


「髪型はどうしたい?」

「あ、じゃあ首元ぐらいのボブで」

「了解」


マルコさんは器用だ。なんだって出来る、どこかのお伽噺の魔法使いのように。規則正しく聞こえてくる、マルコさんの手際の良い鋏の音と、柔らかい海風の温度に私は目蓋を瞑ったまま、太陽の光を最大限に享受する。


「どうせ、長い黒髪が好みだとかなんだか、言われたんだろい」

「ははは」

「今度は言い返さないんだな」

「マルコさんですからね」


ふっ、と息だけで笑って、今度は横髪の調節に入る。一番前の髪を引っ張って、首を少しだけ傾げながら、長さをハサミで測っているらしい。


「マルコさんはどんな髪型の子が好みなんですか?」

「俺はショートかねい。特にボブだとなおよし」

「…お上手なこと」

「お世辞を言ったつもりはないんだがなァ」

「マルコさんならお世辞でも冗談でも嬉しいですよ」

「…それ、どういう意味かねい」

「ふふっ、秘密です」


長さも決まって、後は軽くすくだけだ。しゅっ、しゅっ。規則正しい心地良い音はまだ続いている。あまりの心地よさに目蓋を閉じる。このまま私の意識を手放して、青い世界に溶け込んでしまえたらいいのに。


「…名無し」

「……?」

「お前がどんな髪型だろうとなんだろうと、お前の全てを望む男がきっと現れる」


無理して背伸びするより、お前が一番居心地がいいと思う事をすればいいさ。不意に掛けられたマルコさんの言葉に、私は目蓋を瞑ったまま心の中で返事を返す。なんて気障な言葉だろう。そう心の中で呟いたのとほぼ同時に、陳腐だなァ、と自嘲気味に彼が笑った。なんて気障で陳腐な言葉だろう。だけど一番、欲しかった言葉。彼が自嘲に隠して少しだけ照れた表情をしてたのを私は知っている。わたしの一回りも二回りも年上のマルコさんが、そんな表情をしてまでその言葉を掛けてくれたのが嬉しくて、少しだけ私も笑みが漏れる。気持ちがいいこと。居心地がいいこと。そうだね。マルコさんに髪を切ってもらうのも、その第一歩かもしれない。


「ありがとうございます」

「……?」


切り落とした髪が邪魔にならないように肩に掛けたバスタオルをばさばさと払いながら、私は彼に言った。寝たふりするくらいならちゃんと寝とけ。微笑みを浮かべたまま、タオルを受け取る彼に、小さくありがとう、再びそう口に出して、そのまま大きく伸びをする。


快晴の青空がさっきより一段と鮮やかに、輝いて見えた。














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▼2010621

青い夏の空の下で
生まれ変わる





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あきゅろす。
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