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「待ったか?」

「いいえ、今来たところ」


ギィと軋む木製の扉を開けて少し探るような表情を浮かべながら、彼が部屋の中へ入ってきた。私が掛けた言葉に、浮かんだ申し訳なさが安堵と共に笑顔へと変わる。そうか、それなら、よかった。がしがしとバスタオルで水の滴る黒髪を乾かしながら、気持ちよかったなあ、嬉しそうに呟いた彼に私も嬉しくなって、そうね、と返す。毎日繰り返される習慣なのに、どうしてこうも飽きないのだろう。


「お前髪濡れたままじゃねえか。風邪引くぞ」


ベッドの端にに腰掛けながら、この部屋の主を待っていたら、髪を乾かす事すら忘れていたらしい。指を差されて右手で髪の先を軽く摘まむと、確かにまだ湿った感触がして、小さな透明な粒がぽたりと落ちた。


「はあ、まったく…こっちにこいよ」


返事を返す暇もなく、ぐっと強く腕を引かれる。すぐ傍にある洗面台の鏡の前に立たされて、彼は手に持った白いドライヤーのボタンをかちりと押した。

少し喧しい風音がして、私の髪は彼に触れられ少しずつ水分を失っていく。自分とは違う、不思議な感覚。優しく、丁寧に髪をすいていく彼の指に、魔法を掛けられたシンデレラになった気分がする。ゆっくりと瞼を閉じると、彼が優しく名前を呼んだ。


「だいぶ伸びたな」

「お気に召されましたか?」

「ああ、やっぱり長い黒髪を下ろしてるほうが、お前にはよく似合う」


女は長い黒髪がいいのだ、と熱い口調で説得を試みる彼に根負けして、私は首元ぐらいに揃えていたボブを伸ばし始めたのだった。あれからどれくらい経つだろう。夏の初めぐらいだったから、もう半年程前の事だっただろうか。


「お前の髪、柔らかくって綺麗なんだな」


ふふふと笑って、ありがと、と礼を返す。気持ちいいな。彼がふわりと優しく柔らかく笑った。


「次はエースの番だよ」


まだ乾いてないだろ?そう言ってドライヤーを離そうとしない彼から無理矢理ひったくって、後ろに回る。当たり前だが彼の方が私よりも随分大きくて、鏡の前の私は、彼のその大きな背中にすっぽりと隠れてしまう。

ははは、届かねェなァ。少し上半身を捩って私のほうを見ながら笑う彼に、近くにあった小さい、香辛料でも入れてあったのだろうか、少しは頑丈そうな木製の樽を足元に置いて腰掛けるように促す。彼は大人しく従って、漸く私の手が彼に届く。


「乾いてきてる」

「だろ?俺の髪は乾きやすいんだ。乾かさなくっても、」

「駄目よ。風邪引かれて困るのは私だけじゃないもの」


ゆっくりと毛先に、流れ出る温風を注ぐ。エースにしてもらったように。湿っていつもより素直に、真っ直ぐに伸びる彼の黒髪が、ゆっくりと水分を失っていく。


「人に乾かしてもらうのって気持ちいいんだな」


私にされるがままにされていた彼が、瞼を閉じて微笑を浮かべた。その表情はとても優しくて柔らかくて、とても穏やかだった。



ああ、こういうことかもしれない。不意に、本当に不意に私は解った気がした。私はきっと、息絶える最期の瞬間に、この'瞬間'を思い出す。走馬灯のように駆け巡るのではなくて、きっとこんなちっぽけな、いつもなら忘れ去られてしまう日常を切り取って、ああ、私は幸せだった、そう思うんだろう。

彼も同じであればいい。今という瞬間に、同じ幸せを感じてくれていたら、これほど幸福な事はないのだから。









幸福論









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▼20100621
ささやかな幸福論



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