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パラパラと本を捲る掠れた音と、サラサラとペンを動かす音が静かな店内に時折響く。ここはお気に入りの隠れ家。私の他にはまばらに二、三人の人影が見受けられるだけだ。

かたん。あまり繁盛していない喫茶店のドアが珍しく開かれた。カラカラと入口に掛けられたくすんだ金色のベルが乾いた音を立てて、客の訪問を告げる。ここらでは見慣れない客だ。


「マスター、コーヒーをひとつ。とびきり熱いブラックで」

「かしこまいりました」


マスターと呼ばれた老店主は穏やかな笑みを浮かべながら、手慣れた手つきで注文の品を用意する。

客の様子が気になり、再び目線を戻すと、なんということだろう。あの胸の印に見覚えがある。…なんでこんなところにこの海賊がやって来たのだろうか。

席を立って帰ろうか。いや、そもそも何故私が此処を去らねばならないのだろう。どうやらマスターとは懇意のように見受けられるし、なによりその客の様子を見る限り、わざわさ騒ぎを起こしに来たようにも思えなかった。私は思い直して、再び手元にある本へと目線を走らせる。

こぷこぷとカップに湯を注ぐ音がして、ありがとさん、客が礼を述べるのが聞こえた。コツコツ、…カタン。思わぬ振動に驚いて顔を上げると、ここ、空いてるかい?そう訪ねられた。

なぜ。他にも空席は沢山あるというのに、よりにもよって、何故私の前に。客は私の返事を聞こうともせず、椅子を引いてそのまま腰を下ろした。


「医学書…アンタ、医者になりてェのかい?」

「……」


私はささやかな反抗として、精一杯の不機嫌さを顕にしてこくん、一度だけ縦に頷いた。へえ…そうかい。彼は私の表情に気付いたのか気付いていないのか、どちらにしろ全く意に介さずに、机の上に載せていた解剖学の専門書を手にとって、意外にも一頁一頁興味深そうに眺めている。


「父が医者なの」


彼があまりにも興味を引いた素振りを見せるので、返事を返してみた。ほんの出来心だ。へえ…じゃあ親父さんに憧れて?再び返ってきた疑問の言葉に、こくん、少し間を空けて再び頷く。


「…海賊は、楽しい?」


質問が意外だったのか、彼は他の専門書に伸ばした手を止めて、私の眼を真っ直ぐに見つめてくる。私はなんだか気まずくなって、また再び医学書に目線を戻してペラペラと無駄に頁を捲る。


「海賊は楽しいが…なぜそんな事を訊く?」

「訊いちゃわるい?」


返された質問の意図が上手く掴めずに、こくん、と首を横に傾げると、ああ、大体は怖がって、そもそもこんな風に質問すらしてこねェからなァ。彼は納得したのか窓の外の景色を見ながら、みるからに苦そうなコーヒーをずずっ、と啜った。窓の外は霧雨で、街行く人々の彩り豊かな傘もくすんで見える。

そりゃそうでしょう、海賊だもの。その言葉は喉元に留めて、私は昔から気になっていた事を思い切って、目の前に座る海賊に訊ねてみる。


「楽しいだけで、生きていけるの?」


更に驚いた顔をして、それから彼は笑いだした。ははは、そりゃもっともな質問だよい。彼は愉快そうに笑っているけれど、残りの客の目線が冷たく刺さる。騒ぎを起こすような真似はするな。そう言っているような気がして、痛い。


「確かに、その通りかもしれねェなァ。海賊は'自由'だから…俺にとっては楽しいさ。だが…てめェの'自由'の為に、生きる為に強盗、略奪、人拐い、'海賊'だから、それだけでなんだって許されると思ってる奴等もたくさんいる。そんな事言ってる俺だって同じようなもんかもしれねェ。人様からは奪わねェでも、敵船からは容赦無く奪っていくからな。財宝や食料や航海の記録、そして命も。俺たちはただ自由でありたくて海賊やって生きているが、地に足着けてまっとうに生きてる人間からすりゃ余計な存在なんだろう。社会に貢献する事を生きる事だとするんなら、ただ楽しいだけじゃ生きてはいけねェかもしれねェなァ」

「アンタは…不満なのかい?」


優しい顔をして、客が私のノートを指差して問う。しがらみのない世界。街に息づく人間同士の関係性や押し付けられた義務、将来への安全策。そういったもの全部放り投げて、自分が心から欲している事をして生きていく、羨ましい、忘れていた感覚。


「ホント絵を描くのが上手いんだなァ」



トントンとノートを叩く彼の人差し指の下には、窓から見えるこの街の情景や、店内の様子、マスターのコーヒーを入れる姿、紅茶を飲む客、…そして目の前にいるこの自由な海賊がいた。


「ホントはこっちの世界でやっていきたいんじゃねェのかい?」

「…今時画家なんて流行らないわ。描く前に生きていけない」

「だから医者を継ぐのかい?」

「…そんなんじゃない。人を救える、立派な職業だもの。なれるチャンスがあるのなら、私はなりたい」

「へえ…そうかい」

「…なに?」

「いや、なんでも」


再びコーヒーを啜る彼をちらり盗み見る。霧雨だった空は、突然ざあざあと本格的な土砂降りとなり、人々が慌てて足を速めて帰路につくのが見えた。


「ほんとはね」

「……?」

「なにがしたいのか、何になりたいのか自分でも分からないの。なんでも出来るような気もするし、なんにも出来ないで終わってしまう気もするの。何が一番正しくて、何が一番後悔しないのか、私は分からないの、」

「…アンタ、傘、持ってるかい」

「…え?持ってるけど…」

「じゃあちょいと貸してくれないかね」

「…え」

「この雨じゃあ暫く船に帰りたくても帰れねェが、もうすぐ出航の時間なんだ」

「……はい、どうぞ」


いきなり何を言い出すかと思えば傘貸して…?私から薄い水色の傘を受け取った彼はありがとさん、マスターに掛けた言葉と同じ言葉を掛けて入ってきた扉をギィと押した。


「アンタ、もし、」

「……?」

「もし医者になって、忙しいが充実した毎日送って、旦那と子どもに囲まれて、ささやかだが幸せな人生だと、そう思う日が来たら今日の日の事は忘れろ」

「………」

「ただ、もし、」

「自分の人生に違和感を覚えて、ずっと燻ってんなら、」

「貸した傘を返して貰いに来たと、やってくればいい」

「俺達の船に乗って世界を描いてみればいいさ」

「……!」

「そもそも、正しい人生なんて誰が決めるのかね?後悔しない人生なんて、そんなもんあんのかい?」

「それに、」

「どんなに勝手な事言ってようが、人はてめェの人生の責任は取ってはくれねェよい。だったら、自分に正直に生きない事に果たして理由はあるのかねい」


カランカラン。扉に掛けてあったベルが鳴って、彼は雨の街に姿を消した。私は、ただ、ぼうっとその後姿を見送る事しか出来ないでいた。

カツンカツン。規則正しい靴音が響いて、カチャリ、と私の目の前に置かれたのは、湯気の立ち上るカプチーノと、白い皿の上に乗ったチーズケーキ。


「…え?」

「ほんの気持ちです」


穏やかに笑うマスターがすっと一枚の紙切れを差し出す。サラサラと走り書きされた数字。見覚えのある印。


「ここに掛ければ彼の乗る船に繋がります。必ず貴方の力になってくれますよ」


差し出されたそれを黙って受け取る。ありがとうございます、なんとかそう呟くのがやっとで、私はそのまま目線を紙切れに乗せられた印に移す。

ひとまず、落ち着こう。ゆっくりと頂いたカプチーノを飲み干して、鮮やかに赤く彩られたケーキにフォークを伸ばす。アクセントに添えられたラズベリーが、やけに酸っぱかった。

私は、今、小さく見えて実は大きな分岐点に差し掛かっているのではないだろうか。突如現れた、綻びのような人生の分岐点。…乗って、みようか?ちっぽけで盛大な、この小さな賭けに。

窓の外を見遣ると、土砂降りの雨は嘘のように、一筋の虹が、雲の切れ間から海の方角へ掛かっていた。



















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▼20100611
あまりにも恥ずかしいのだけど読んでほしいという二律背反からひっそりと。




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