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淡い光が煌々と灯る部屋が並ぶ薄暗い廊下を歩くと、ギシギシと音を立てた。辺りには一面紫煙と葉巻の灰色の煙が漂う。艶かしい声が私の耳奥をびりびりと震わせる。此処はいわゆる遊廓であるらしい。生きるためとはいえ、まさか自分が此処にいる事になるなんて、当然だが想像だにしてなかった。私はただ生きるために実に様々な'仕事'に手を出してきたが、どれひとつとしてへまをしたことは無かった。しかし、ただひとつ、政府の機密指定情報を得るために、とある政府高官に摺よったのが間違いの発端だった。


紅茶のポットに睡眠薬を忍ばせて、何食わぬ顔で手渡せば、彼は実に不用意ににぐいっと飲み干した。数時間後に深い眠りについた彼の懐から、情報の在処を示す鍵を引き抜いて、私の胸元へ移してしまえば、私の仕事は終わりだったのだ。


手袋を付けてそっと彼の胸元に手を差し込めば、かちゃりと冷たいカードの感触。しかし、その瞬間、こめかみにも冷たい銃口の感触。咄嗟に私もガーターに差して置いたリボルバーを引き抜いていたものの、周りを取り囲むのは8人の黒服。多勢に無勢。いきなり鳩尾に蹴りを入れられて、思わずリボルバーが私の手からカランと無機質な金属音を立てて落ちる。そのまま、ハンカチを口許に押し付けられると、もう其処からの記憶は私には、無い。ただハンカチがやけに白かった事と、コツコツと靴音を立てて部屋に入ってきた9人目の黒服の口調が、やけに丁寧なのに冷たかった事だけ、憶えている。





目を醒ましたら、見知らぬ場所に私はいた。漂う紫煙が目に染みる。ふと見遣ると隣にいた、がみがみと耳障りな声で喋る年増の女に、私の今の状況を尋ねる。


「はあ?アンタ'売られた'んだよ」


「…売られた?」


「そうさ、もう前金は充分払ったんだからねえ、しっかり働いてもらうよ」



これが私が此処にいる理由らしい。政府に売られる。そんな馬鹿な話があるものなのか。指名手配こそされてはいなかったものの、今や私の身分はそれと変わらぬはずだった。何故監獄ではなくて、此処に売り飛ばされたのか。


「そんなこと知るもんか。さあさあ、目が醒めたんならさっさと行きな!」


先程の女が口にくわえたパイプの先からくゆり、紫煙を吐き出した。それは輪を描いて浮かんで消えて、消えては浮かぶ。何処へ?私には何処にも行く当てがない。

追い立てられるように、廊下を通り過ぎればギシギシと音が鳴る。辺り一面紫煙と葉巻の灰色の煙が漂っては消えていった。艶やかな声が私の鼓膜をびりびりと揺らす。私にあてがわれた場所。其処は最奥の角部屋。


「アンタの部屋はそこだよ。まったく初日っからいいご身分だよ。指名が入ってるからな、さっさと支度するんだよ!分かったのかい!」


は?指名?もしかして、まさか。

バン、と乱暴に扉を蹴りつける音と同時に無理矢理部屋の中に押し込まれる。な、ちょっと待って。咄嗟に扉に指を挟もうとするも先程のパイプをじゅっ、と手の甲に押し付けられる。灰の熱に思わず顔をしかめた私の顎を、くっと持ち上げた先程の女がくくく、と愉快そうに笑う。


「指名の客に失礼の無いようにするんだよ。なんたって此処一番の上客だからね。お代はきっちり上前付けて頂いてるよ。まあ、せいぜい愉しませてもらうんだねえ」

ヒヒヒ、と卑猥な笑い声を立てて、女はピシャリとその扉を閉めた。


「………」


暫く絶句しか出来なかった。そしてその後はただただ呆然とする他なかった。何十分、いや何時間経ったかという後に、漸く戻ってきた意識が私の脳に告げたのは、一刻も早く此処から逃げなくてはならない、という事だった。



幸いこの角部屋には小さいながらも海に面した窓が付いている。出口さえあればいい。窓ガラスの縁に手を掛けたその時、あの女の、がみがみとした耳障りな声が聞こえた。へこへこと腰が低い態度で相手に媚びている。相手の客の声は、やけに低く、その口調は冷たかった。


コンコン。


女の声が遠ざかり、ガラスを私が外し終えた頃。ノックの音が聞こえた。こんなところまできてノックするとは何ともご丁寧な事。…窓の方は、後は何とか蹴りを入れてヒビが入ればいい。


私が渾身の力を込めて窓枠を足蹴にしたの同時に、バン、とノックとは対照的に乱暴に扉が開かれた。



「…愚かな女だ」



窓枠は外れミシミシと壁が崩れかけている。冷静を保て。もう一蹴りで済む。脚を上げようとしたその瞬間。


先程まで扉口にいた筈の男が、ぐっと私の顎を掴んで上へ向けた。


「逃げたいのか」


「貴方、誰?」


黒服に身を包んだ長い黒髪の男。胸元には白いハンカチが挟まれている。眼光は射抜くように冷たく鋭い。無表情。その表情からは、何を考えているのか全く読み取る事は出来ない。


「…お前の客だ」


彼の背後からバサバサと羽音がして、黒いハットをくわえた白鳩が、ぱさりと彼の肩に止まった。

白い鳩はそのままハットを男にぽすっ、と被せると私を一瞥して、主の意を汲みとったつもりなのか、一鳴きして私が蹴破った窓から空へ飛び立った。


「お前は逃げられない」


表情を崩さずにぽつりと彼は私に呟くと、ひょいと私を抱き抱え、そのままベッドへ連れていく。うそ、やめてよ。必死で爪を立てたり厚い胸板に拳をバンバンと打ち付けてみたり、挙げ句には首を締めてみようとしたけれど、そんなの蚊に刺された程度と思っているのか、男は全く意に介さずに、どさっと音を立てて私は乱暴にベッドに放り投げられる。


そのままぐっと両腕を後ろに組まされる。握られた場所が、じんじんと痛い。思わず声が出る。男は何を考えているのか分からないポーカーフェイスを崩さずに、がちゃり、私に手錠を掛けた。


「……!!」


「…なに、取って食いはしない。安心しろ」


私を一瞥もする事無くその男はしゅるしゅるとネクタイを外す。鳩がご丁寧に乗せた黒いハットは机に置かれ、黒い上着は壁に掛けられる。その下には何丁もの拳銃。コツン、コツンと一つずつ冷たい無機質な音を立てて硝子の机に置かれていく。 あろうことか男はその白いシャツをも脱ぎ捨てて、引き締まった胸板を露に私に近づいてきた。


「…そんな眼で俺を見るな」


言葉とは裏腹に、無表情を崩さなかった男の口角が、少しだけ上がっている気が、する。私は最大限の嫌悪と牽制の意を込めて、きっと男を睨み付ける。




触れられたら、舌を噛んで死のう。男の手が伸びてきた瞬間、そうするつもりだったのに、予想外の行動に私はその機を失ってしまった。男は私をぐっと引っ張ると、後ろから優しく私を包み込んで、そのままベッドに倒れ込んだ。


「…悪いが疲れている。少しだけでいい。このままでいてほしい」


対価は充分払った筈だ。ぽつりと男は呟くと、そのまま規則正しい寝息が僅かに聴こえてきた。包まれた背中がやけに暖かい。机に置かれた幾丁もの拳銃。瞬間的に移動できる身体能力。'充分な対価'を支払えるだけの財力。間違いなく、この男は海軍の高官だ。それにしてもそんな人間が何故、手錠をはめたとはいえ、無防備に一介の遊女を抱き締めて寝息を立てられるのだろう。私を男が信頼する要因は塵ほどもなく、男が私を信頼する要因もそれと同じである筈なのに。


ぐるぐると答えの出ない問いを繰り返し、私は結局一睡も出来ないまま、夜を明かした。不思議と彼の腕から逃げようという気は、起きなかった。



私が逃げようとした事は無惨に朽ちた部屋の窓と壁が証明してくれたおかげで、私はそれからずっと部屋の端に手錠で繋がれたままだ。これでは政府に捕まらずとも監獄である事に変わりはない。もっとも私が此処から逃れられないのはそれが理由ではなかった。彼はあの日から毎晩私の元へ通い詰めては、ただ私を後ろから抱き締めて眠りについた。言葉を交わす暇もなく、彼は意識を手放してしまうので、一日中誰とも会話を交わさず身体を動かさない私は、決して言葉を返さない蝋人形のような彼に向かって、ぽつりぽつり、言葉を投げ掛ける。


彼には私の言葉はきっと聴こえていないだろうし、そもそも私の話に興味を示すとも思えなかったから、素直に感情を言葉に変える事が出来た。彼と私の奇妙なこの関係は、私にはいつしか心地良く、いつしか不可欠なものへと変わっていってしまった。




「痣になったな」


それは3か月が過ぎた頃だった。動く事は出来るようになったものの、相変わらず私の手錠は外されないまま、かちゃかちゃと今日も音を立てる。既に金属が触れる手首は赤く擦りむけ腫れ上がり、消えない傷となっていた。

彼が最初の日に発した以来の私に向けられた言葉だった。彼が決して言葉を交わそうとしない事にもう諦めを抱いていた私の驚き様は、容易に想像できると思う。


「…そうね」


「お前、」


3か月毎晩抱き締められ一緒に眠りについていたのに、お互いの名前すら知らないなんて、滑稽にも程がある。私は彼を何も知らない。彼も私の何も知らない。


「何故逃げない?」


逃げる気など毛頭無かった。私は元々逃げる先も帰る場所も無いのだから。たった独りでいるよりも、僅かでも暖かい人肌にくるまれて眠りにつく事を無意識に選んでしまっていたのだ。…こんな事になる前は、独りで生きてきたのに。何という事だろう。言葉も交わさず、ましてや肌を重ね合わせた事すら無い男に縋っていたなんて。


「…さあ、どうしてかしらね」


彼は黙って私の瞳を見つめた。初めてだった。漆黒の瞳が私の真意を推し量るようにじっと見つめている。



かちゃり



そのままその目線が下へ向くと、彼の長くて白い綺麗な指が器用に私に加せられた手錠を外した。無表情。彼は最初に見せたあの考えを読み取らせないポーカーフェイスを浮かべて、私に呟いた。


「…悪かったな。もうお前は、自由の身だ」


その時気付いた。私の言葉を全て彼は聴いていた。聴いていた上で黙ってた。彼が表情を崩さないのは感情を失ってしまったからではなくて、揺れ動く感情を読み取らせないため。彼は今、私に感情を読み取らせないように無表情を浮かべているのだ。


「金ならいくらでも持っていけばいい。お前には充分、対価を頂いたからな」


コツコツと冷たい靴音を立てて彼はどさっと皮張りの黒いソファーに腰を下ろした。硝子の机の上にどさりと数えきれないくらいの紙幣の束を置く。その横には、見知ったリボルバー銃。


「……!!」


「お前を此処に売ったのは、俺だ」


「殆ど監禁に近い状態に追いやったのも、お前にその消えない痣を付けたのも全て」


彼は考えの読めない無表情を崩さない。


「もうお前は充分俺を恨んでいるだろう?何をしている。此処から出ていけ」


…狡い。狡い人。逃げれば囲み、囲まれれば逃げる。確かに私は自分の境遇を恨んだが、彼を憎んだ訳じゃない。




「いやよ」


「……?」


「身寄りもない。行く当てもない。世界で私にはもうあなたしかいない。地の果てでも、海の果てでも…この世の果てでもあなたについていくわ」


「…正気か」


「正気だろうが狂気だろうが、私にこんな事を口にさせたのは貴方の責任よ」



くくく、と可笑しそうに彼は笑った。不謹慎だが、彼が笑ったところを私は今、初めて見た。毒気が少しだけ抜けた彼の顔は、ほんの少しだけ、優しさをたたえているように思う。




つかつかと靴音を立てて彼は私の元にしゃがみこむ。あの長くて白い綺麗な指で私の耳に髪を掛けて、低く囁いた言葉は、















貴方からの愛に埋もれて、そのまま溺れていくのも、悪くないかもね








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▼20100522
素敵企画サイト「伝愛」提出。すこし歪んだ「愛してる」も時にはいいかもしれないと思って書かせていただきました。読んで下さった方々、素敵な企画を立ち上げて下さった主催者様、本当にありがとうございました。



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あきゅろす。
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