こんこん。
咳混じりに入室を許す声が、いつもより掠れて小さく聞こえた。
熱に浮かれるごほっ。
一番隊隊長ともあろう人が、
ごほごほっ。
風邪引いて寝込んでしまうなんて、
みんなマルコさんがいないとだめなんですから。
自分がどれほど必要とされているか自分で分かっていますか?
口を付いて出そうになる小言をすんでのところで押し込める。
いっつも私はそうやってお節介を焼いて、あの大きくて優しい手でくしゃくしゃと頭を撫でられて、あの掠れた声で、お前が心配することはなにもないよいって言われてしまう。
今日はそんな私とは、さようなら。
「名無し、なんだよい。仕事あるんじゃねえのかい」
「今日一日はマルコさんの看病がお仕事です」
用意してきたお粥をお盆に載せて、水と薬を隣に置く。食べやすいようにと用意した蓮華が、ことりと音を立てた。
「ナースにでもやってもらうのに」
ぴくり。
片眉が鋭く上がりそうなのを抑える。
だめ、昨日までの自分とは、さようなら。
「…熱はいくつでした?」
「38.7度」
…意外。いつもは素直に言うような人じゃないのに。
「…きつくないですか?マルコさん、普段平熱低いでしょ」
「…なんで知ってるんだよい」
…あ、まずい。仲良くしてるナースの一人に頼んで教えて貰ったのだ。風邪に効く食事、管理の仕方、あとマルコさんの平熱。
「…なんとなく」
「…へえ、そうかい」
まだ疑っているのは分かるけど、まあ巧くやり過ごした。ちらりと横目で盗み見ると、目を閉じて少し眉をひそめるマルコさんの顔。その顔は汗が滲んで、少し反対側に傾けた横顔がなんだか色っぽい。
隣に酌んできた氷水にタオルを浸し、ぎゅうと絞る。捻れたタオルの真ん中から、ぽたぽたと水滴が堕ちる。
額に合うように折り曲げて、髪を掻き上げゆっくりとそれを載せる。なんとなく滲む汗を拭き取るのは躊躇われた。
「…気持ちいいな」
薄く開いた瞼から見える漆黒の瞳が軽く潤んでいる。見つめてはいけない。見つめて、目を離せなくなったら最後、今日の私ではもう耐えられない。
「…それはよかった」
慌てて目を逸らす。水を取り換えてこようと立ち上がったその瞬間。腕を掴まれた。容器の中に入った氷水がちゃぷんと音を立てて、墜ちた水滴が床を濡らした。部屋に来るときに冷蔵庫から貰ってきた氷は、もう既に溶けきっていた。
「…このお粥お前が作ったんだろい?冷めてしまう前に食いてえんだけどな」
この人は無茶を言う。だめだ、逆らえない。さようなら、今日の自分。また逢いましたね、昨日までの自分。
「ご自分で……!!」
その時だった。さっきよりさらに強く腕を引かれて、そして唇に甘く熱い感触。引っぱられる瞬間に無意識に瞑った目を開けると、熱を帯びた笑ったマルコさんの目と合った。
ふと気付くと、上半身を起こしベッドに座っていたマルコさんの上に乗るような形になっていた。…何をしているんだろう、私は。
「…床、水浸しですよ」
「いいさ、俺たちの熱で乾いてしまうだろうよ」
…いつもなら言わない、歯の浮くようなことを言う。熱に侵されたのは私か、彼か。…いや、ふたりともだ、きっと。
彼をいちばん必要としているのは、私。
さようなら、今までの自分。こんにちは、今からの自分。
もう少し、彼と一緒に温かい熱の中で溺れていたい。
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