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めずらしく、
目が覚めた。
肌寒い朝なのに。
部屋の上の方の、小さい窓から斜めに薄い黄色い光が射している。柄でもなく俺を起こしたのはこいつか。
なんとなくもう寝る気になれなくて、黒いカーゴパンツにベルトを通しながら、薄暗い廊下を歩く。
何か飲みてェな。
キッチンの流し台で、コップに並々と水を汲んで、ごくり、最後の一滴を飲み下す。
ふと窓の外を見ると見慣れた薄ピンクの上着に、これまた薄茶色のマフラーを巻いた後ろ姿が、目に入った。
たまたま無造作に放りだされていた誰の物かも分からない黒いコートを羽織り、甲板へと向かう。
「名無し」
投げ掛けるように名前を呼ぶと、半身を後ろに向けて、声の主を確認しようとする小さなその姿があった。
「エース」
彼女の表情が、心なしか嬉しそうに柔らかいのが、俺の見間違いじゃなければいい。
「なにしてんだよ、朝っぱらから」
人のことを言えないのは、今は棚に置いておく。
「エースこそ、どうしたの?喉乾いたから、何か飲みに?」
…よくわかったな、ぽつり呟く。
でも、ほんとは、それだけじゃない。
下を向いて、それとなく彼女の横に並ぶと、冬と春の入り交じった風が、頬を撫でていった。生暖かくて、でも最後は突き刺すように冷たい風が。
「今日みたいな天気、すきなの」
彼女の視線は、変わらず遠くへ向けられたままだ。
「どこらへんが?」
生暖かい風に乗って、彼女は俺の知らないどこか遠くへ行ってしまう気がして素っ気なく突き放した声が出た。
そんな俺の声音に気付いているのかいないのか、遠くを見つける彼女の視線は、変わらない。
「風が暖かく春の訪れを告げているのに、大気が冷たく突き刺さって、完全に春に浸るのを許さない。こころが、そわそわする」
こんな季節は、いっぱいやりたいことが浮かんでいたはずなのに、いざ目の前にすると、何をしていいのかわからなくならない?
少し哀しそうな、気恥ずかしさを隠したいのか困ったような顔をして、漸く彼女が俺と向き合った。
「エース?」
彼女の瞳は、だんだんと戸惑いの色に支配される。俺は彼女の瞳から視線を外さない。
今外したら、
きっとお前は戻ってこない。
「名無しみたいだな」
それでもとうとう耐えられなくなって、ぽつり、呟いて目線を外した。
「こんなに身体は近くにいるのにこころには手が届かない」
そわそわというよりも、何も出来なくなる自分が、焦れったい。こんなに自分が子供みたく何も出来なくなるなんて、思っていなかった。
ふいに手に温かさを感じる。
ああ、名無しの手だ。俺より小さくて、でも俺と同じくらい温かい、手。
そのまま、身体を俺に預けて名無しの体温が、俺の中に流れ込む。
こころが、
ざわざわする。
「……!!」
無意識だった。
ふいに、
胸に、
突き上げてくる衝動。
身体を引き寄せ抱きしめる。顎に手をあて、俺に向けさせると、激しく舌を絡ませ唇を奪った。
名無しは抵抗しない。口を心持ち開いて、舌を絡ませ、躊躇した挙句、俺の首に腕を絡ませ、応えようとする。
愛しい。
愛おしくてたまらなかった。
「名無し」
とろんと溶けた薄茶色の瞳が俺を映す。
「ずっと…好きだった」
(だからどこにも行くな、俺だけの名無しなんだから)
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