それは恋であった。



ジェイドには誰に言うことも出来ぬ感情があった。公にも又、彼の友人でさえも言うこと等、到底に出来ぬ話であった。

云ってしまうならばそれは恋愛の類であった(というよりははっきりと恋愛であった)
笑われてしまうならばまだいい。また、人生論を語られるぐらいならどれ程に救われるだろうか。ジェイドはそうであれば、と望んではいたが、実質はどうでも好かったのかもしれない。ただ、云うてしまえば、言う気が起こらない等と簡単な話で終わる事でもあったからだ。付け加えるのであれば、ジェイドは他人にどう思われようが関係無いとさえ思っていた。矛盾しているとも思ったが何より本当に是が云うべき感情では無いことも理解していたのだ。
聡い人は可哀相ね、と何処かで女性が自分に語っていたことを思い出す。それは一夜限りの女性であった。聡ければ、あれをしようこれをしよう等と無茶な夢を見ることが出来ないのだと笑われて、成る程と頷きさえもした。その時おそらくは自分は20代であった。或いはそうではない人間も居るのだろう。自分はそういう人間を一人知っている。それは他でもない白髪の自身の幼なじみであった。若しくは自身もそうなのであろうか。一生懸命に組み立てた計算式の答えなど理解していたというのに諦めようとさえしなかったあの時の自分はまさに女性の云う聡い人とは逆であったのだろうと思った。
それであるならば、今の自分はどれ程に面白くもない人間なのであろうか。夢見る事もせず、ただ歳だけをとって重ねる事に固くなっていく。
計算式の上でしか生きられない其の人間を女性は可哀相だと笑った。そんな可哀相な人を愛すのが自身の幸せなのだと、紅を塗った唇が綺麗に弧を描いたのを、未だ最近の事であったかのように思い出してはジェイドは軽く嘲笑した。
兔にも角にも、ジェイドにはどうしても人に相談等、又、協力してくれ等は当たり前に出来ない其の感情へと煩わしささえも抱いていた。
いっそ切り捨ててしまえたならどれ程に楽な事であろうか。
熱を膿んでゆく其の感情は小さくなることを知らなかった。ただ、日々日々と大きくなっていくばかりであったのだ。大きく膨らんで時折ちくちくと刺激をする其の感情を好きになることは非常に難しかったのだ。またこれからも好きになることは無いのだろう。反して、諦めの気持ちも抱いていたことにジェイドは気付くことは無かった。



鳥の鳴き声が聞こえて振り向いた。ちいちいと小さな可愛らしい鳴き声が耳に入り、そちらへと振り向く。固い地面へと視線を向ければ小さな、本当に小さな小鳥が身体を斜めに支えながら矢張りちいちいと鳴いていたのだ。鳥はよくみれば腹の部分だけは白く、後は茶の羽で覆われていた。
正直に言ってしまえばその時の自分はらしく無かった。ただ小さな其の身体を掌の上へと乗せて目の前へと持ってくれば、くりくりとした黒い眼を鳥はじいと向けてくるだけであった。
またどうしてこんな所に鳥が居るのかは疑問ではあったが、よく見れば其の羽は一部を痛々しく赤色に染めて無残にもあらぬ方向へと折れてさえもいたのだ。ああ是では飛ぶことさえも出来ぬだろうと、その傷口を見る。一体何にやられたのだろうか。わからないが、ちょこんと首をかしげてこちらを見やる小鳥が眼を輝かせてこちらを見やるのを、見捨ててしまおうと等とは思えなくなっていた。飼ってやるつもりでは無かった。ただ少し治療して傍に置いて遣ればまた、外へと帰るだろうと思った。鳥の餌は何であっただろうか。小さな嘴がきちんと閉じられているのが寂しく思えたのは錯覚であろうとも思った。
暖かな其の身体を愛でるように指先で撫でて遣れば、やっとのことちぃ、と小さく鳴いたのだ。



それは、籠の中ハンカチの上へと置かれた。或いは巣を意識したのか、自分さえも分からなかったが然し、ちょこんと其処で大人しく居座っている小鳥にジェイドは特に何の感情も湧かなかった。
幼なじみに鳥は何を喰うのかと問えば、蚓か若しくは虫だろうと教えて貰った。生憎自身はそこまでしてやろうなどと言う気は起こらなかった。店に置かれていた鳥用の餌袋を開いて水とそれとを目の前に置いて遣れば中々に食べようとはしなかった。それでも待つことが大事なのだろうと、鳥をそのままにジェイドは机へと向かう事にした。遣ることは多分にあったのだ。白い紙の塔が目に入って、それを一枚掴み目の前へと置く。かたっくるしい文章の羅列が次々にと頭に入っていくのを、又理解してペンを動かす。かりかりという音に不思議そうにこちらを見やる小鳥がちい、と鳴いて存在を主張したが、自身はそれを無視してただ手を動かし続けた。


暫くして、控えめにこんこんと扉を叩く音が聞こえた。誰だ、問えば俺だけど、とぎいと音を鳴らして扉を開ける。其処に立っていたのは若い伯爵であった。ジェイド、と伯爵、ガイは名前を読んで数歩進む。書類を持ってきたのだと告げられて、ジェイドは机の上を指す。そこらに置いてくれれば結構ですよ。それに一瞬は悩んだのだろう。ワンテンポ遅れて、それじゃあと置かれた書類は紙の塔の隣へと置かれる。それを少しだけ視線を向ける事で確認し、ジェイドはまた作業に没頭した。そうせざるを得なかった。そうでなければ意識してしまうからであった。
「あ、」
隣に立っていたガイがふと周りを見回した瞬間、小さくそう呟いた。鳥だ、と続いたそれは明らかにジェイドの拾ってきた其の小鳥へと掛けられていた。すっ、とガイが離れてそちらへと向かう。小鳥はおそらくはガイの方へと向いているのだろうとジェイドは思った。小さなその温もりを抱え上げて、ガイはまじまじとその鳥を見る。鳥はちい、とは鳴かなかった。大人しく掌の上でじい、として小鳥はガイの動きを待っていた。
「旦那、こいつ如何したんだい」
「拾ったんですよ」
詳しく告げることなく、ただ素っ気なくジェイドは返す。特には気にはならなかったのだろう、ガイはへぇ、と小さく頷いて小鳥を見る。丸く固い頭をくりくりと指で撫でて遣れば気持ち良さそうに目を細めるのをガイは素直に可愛いと思った。また、柔らかい羽で覆われた熱に愛しさもあったのだ。可愛いじゃないかとガイが誉めればジェイドはペンを置いてそちらへと振り向く。嬉しそうに小鳥と向き合うガイはまるで子供の様に笑って、小鳥の様子を伺う。ジェイドにはそれが愛しくて堪らなかった。それは小鳥へというよりは矢張りガイへと向けられた感情であったが、敢えて告げることはしなかった。
「旦那が小鳥を育てるだなんて、なんか意外だな」
ガイは、はは、と軽く笑った。其の言葉にはジェイド自身でさえも頷いてしまうものであったが、ふざけて、美味しそうだったのでと笑えばガイは直ぐ様に軽く苦笑した。食べるのかよ。それにさあどうでしょうと誤魔化してやる。食べるつもりは毛頭無かったが、性分故か否定する事はしなかっただけであった。小鳥は、食べると美味しいという話も聞いたことはあったが、試してみよう等とは思えなかった。
漸く鳥はちい、と鳴いた。ガイの掌の上が落ち着いたのであろうか。あ、鳴いたな、とまた嬉しそうに笑ったガイにジェイドも微笑んで遣った。
ジェイドはガイが嬉しければ自分も嬉しくなることに気付いていた。そのことに初めて気付いたのは何時であったか。覚えてはいなかったが、然しそれはジェイドが自身の中の厭らしい感情(とジェイドは思っていた)に気付いた時であったのだと思う。煩わしいこの感情が、ガイに因って息をしている事実をジェイドはなぶってしまいたかった。矢張りそれは自身には必要ではない感情に思えたからであった。
鳥は。とジェイドの思考を遮ってガイは疑問を口にした。
「名前なんてあるのかい」
問われたそれはジェイドは考えもしなかったそれであった。小鳥には名前等無かった。付けるという習慣さえもジェイドは忘れていたのだ。名前なんてありませんよ、と告げれば、ふぅん、とガイは軽く頷いた。小鳥に名前を付けるのは少し可笑しくも感じた。どうせ怪我が治れば直ぐにでも飛んで行きますよ、と口にすれば、それにしてもなぁ、とガイはがしがしと小鳥を乗せてない方の手で後頭部をがしがしと掻く。昔にルークが小鳥を拾った時にはあいつ、ルークジュニアとか名付けてたんだ、と可笑しそうにガイは笑った。懐かしいのだろうか。今や消えてしまった少年を思い出してガイは柔らかい表情を浮かべた。なあ、俺が名付けてもいいかい。それに好きにしてください、と返してやる。なら、好きにさせて貰うよ、と小鳥の頭を人差し指で撫でてガイはくりくりと見つめてくる小鳥へ優しく微笑んだ。それが酷く羨ましかった。悲しかった。



ちい、と小鳥は鳴いた。
腹をぐりぐりと指で擽ってやる。数分前にこの部屋を出ていったガイに因って小鳥は名前を貰ったが、ジェイドは呼ぶ気にはなれなかった。別に可笑しな名前ではない。又、言うなれば彼らしい名前を付けた。ただ、それを呼んでしまう度に自身は酷くどうしようもない感情に責められそうな気がした。そうやって、矢張り小鳥の名前は呼ぶ気にはならなかった。
「いいですね、あなたは」
小鳥はくり、と首をかしげ、ちいと満足気に鳴いた。羨ましいのかも知れない。小鳥相手に等と馬鹿らしい話であったが、それは確かにそういう感情ではあった。
「ガイ、」
小さく呟いた。今は此処に居ない彼の名前を呼ぶ度に騒ぐ胸があった。

ジェイドには誰にも云えぬ感情があった。ずたぼろに引き裂いて無かった事に出来るならばとも考えた。それはジェイドだけの秘密でもあった。それは誰に言える話でも無かったからに過ぎない。
ただ、目の前でちいちいと鳴くこの小鳥には全てを言ってしまいたくなっていた。どうせ動物だと馬鹿にしていたのかもしれない。ただ、今はまだ白い包帯に包まれた其の羽で飛んでいく時を夢見た。いっそ私のこの感情さえ持っていってくれぬかと願った。小さな身体では運ぶことさえ難しいこの感情を。
そうして考え、ああ自分は。と嘲笑する。こんな風に考えている自分は酷く可笑しい気がした。途端、あの時の一夜限りの女性が、少しだけ頭にちらついた。あの時、あの女性には自分はどう見えていたのであろうか。夢のないレール上の人間に見えたのだろうか。

ジェイドには誰にも云えない感情があった。



それは恋であった。



あきゅろす。
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