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アベミハ獣医シリーズ(完結)
誘因



最初は、好きでも何でもなかった。
人の目は見ないし、話は意味の分からない母音が並ぶし、すぐに逃げ出しそうな雰囲気。
オレに引継ぎをする先輩も、苦笑混じりに彼を紹介してくれた。
ただ、金は持っている上、この業界の知識が全く乏しいらしく、他の病院のように値切ってくることはないから上得意ではある、と帰りの車の中で聞いた。
それなら、ビジネスとして割り切って付き合っていこう。
当時のオレは、そう思っていた。

そんな思いが一転したのは、オレが足を運ぶようになって数ヶ月経ったある秋の日。
午前の診療時間が終了し、すっかり人気のなくなった待合室で、新商品の紹介のためにぼんやりと面談の時間待ちをしていたオレの前に、作業服を着た二人の男が急ぎ足で診察室へと入っていった。
近くの森で複数発見された鷲が、この小さな診療所に運ばれてきたらしい。
その中で、1羽だけ頭を動かすのが見えたが、その他の鷲は体が硬直しているようだった。



「何かあったんすか?」



男と入れ替わりに診察室から出てきた篠岡も忙しそうに見えたが、なぜか気になってその手を止めさせてしまった。



「あ、阿部さんっ。
ごめんなさい、急患なんです。
どうしましょ、先生と面談されるお約束でしたよね」

「お構いなく、先生がお忙しいのなら出直してきますので。
何かお手伝いできることがあれば、させていただきますが」

「いえ、それは―」

「篠岡さんっ」

「あ、はい!
ごめんなさい、失礼します」



篠岡はUターンで診察室に戻る。
オレの足が、その後を追って診察室に入ってしまったのは、多分興味があったのだと思う。
今までに聞いたことのない張り詰めたような真剣な声に、今、彼はどのような顔をしているのかと。
本当に、そんな無責任な下らない子供心だったのだ。
けれど。



「レントゲン、準備が終わったら、インキュベータも。
1台でいーです。
それと、給餌も確認するんで、少しだけ鹿肉 お願いします」

「はいっ」



篠岡は、再び診察室を飛び出していく。
彼女の背中を見送った後、診察台に目をやると、微動だにしない数羽の鷲が見えた。
誰でもそうだろうが、動物の死骸は気分のいいものではない。
野生特有の匂いすら死臭のように思えて、思わず手で口元を覆った。

こいつは、平気なのかな。

そんな心配をしたのは、今までの頼りなげな言動がどうしても思い起こされるから。
しかし、院長の顔を横目に見て、オレは息を飲んだ。
初めて見る彼の真剣な眼差しは、鋭い光を宿している。
それは、集中していることもあるのだろうが、もっと強い覚悟のようなものすら感じた。



「…外傷が少な過ぎる。
確か、近くに鹿が、生息してるんですよね?
なら、これは……。
すみませんが、発見地周辺のデータをお願いします。
それと―」



クライアントに振り回され、不器用な動きしかしないこの男が、てきぱきと触診をこなし、他人に指示をしているのにも圧倒された。

やっぱり、医者なんだ。
当然のことに感心していていると、不意に振り返ったヤツとまともに目が合った。

全部が吸い込まれる。

一度も真直ぐに見ることのなかった色素の薄い大きな瞳に、そんなことを思った。
猫のような目を軽く見開いたかと思ったら、「ごめん、」と一言謝られて、気がつけば診察室を追い出されていた。
それからしばらく、オレはバカみたいに白い扉の前で突っ立っていた。
心臓が煩くて、まともな思考が働かない。
顔が熱くて、頭がぼんやりとしている。
何が自分に起きたのか、よく分からない。
待合室の時計が、13時を知らせるチャイムを鳴らす。
その音に、ようやく魔法を解かれたような人のように足元が崩れ、オレは近くの長椅子にどうにか腰をかけた。

ヤツの顔が、あの強い瞳が、頭から離れない。
全部が不意打ちのようで、ズルイとさえ思った。
しかし、どんなに呪っても後の祭りだ。
出会っていないあの頃には、もう戻れないのだから。







「……んっ―、……んン…」



抗議の声とオレの肩を押し返そうとする白い手に、罪の意識より欲情を覚えるオレはきっとどこかいかれている。
苦しそうな顔にも気付いているけれど、どうしても離してやれない。
今、ここで解放すれば二度と手にすることはできないという不安に、勝つ術などないのだ。
恐怖を打ち消すように、更に深く口付ける。
しかし、そこには快楽や幸福を遥かに上回る本能しかないように思えた。

頼むから、逃げないでくれ。
頼むから、オレだけを見てくれ。
必要だから、大切にするから、愛しているから。

どれ一つ言葉に出来ない想いを、この口付けで伝わることなんて決してないのだろうけれど、それでもヤツに届くようにと願わずにはいられなかった。

少しすると、急に抵抗が弱まったのが気になって体勢を崩さずに様子を窺うと、頬に流れていくものが目に映って、つい手の力を緩めてしまった。
それは、ヤツの計算だったのだろうか。
その隙を逃すことなく、ヤツは思い切りオレを突き飛ばした。
直後に、壁に当たった背中に激痛が走り、一瞬息が止まる。
どんなに細くて弱々しく見えても男には違いなかった、などと頭の片隅で後悔した。



「…な……なん、で…、こんな こと―」



ヤツの声は震えていた。
後ろめたさしか残っていないオレは顔を見ることができなくて、返す答えも見つからなくて、ただ俯いているしかなかった。



「ふ、ふざけ…てる、のか?」



ふざけてあんなことできる訳がない。
けれど、アルコールの勢いがあったことは否めない。
それは、ヤツにとっては悪ふざけとしか思えないだろう。



「……どうして、答えないんだ?」



泣いている。
顔を見なくても分かるほど、声は上ずって情けなく響いた。
胸が潰れるように痛む。
自分のしたことなのに、自分が泣かせているのに、自分が壊してしまったのに。
ヤツを心配するよりも、ヤツに救われたいと思うオレは身勝手だろうか。
酷い頭痛と醜態に、吐き気を覚える。



「阿部、君……、答えて くれ。
………でな、きゃ、オレ……オレ、は、」



ごめん。
そう言えば、許してくれるのだろうか。
好きだ。
そう伝えれば、受け入れてくれるのだろうか。
それとも、オレでない他の誰かなら。
篠岡や、カノウとかいう幼馴染なら、あんたは笑ってくれたのだろうか。



「……阿部君?」



けれど、オレはオレだから。



「阿部 君、どうしたんだ?
阿部君?!」



オレだから、あんたを好きになったんだ。




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