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変わらずに待ってる





 気がつくと口ずさんでいるのは母が歌っていた唄だ。タイトルも歌詞の意味もなにも知らないけれど、マリーはこの唄が好きだった。
 朝食はコップ一杯の牛乳とバターを塗ったトースト。じゃがいもはまるのまま。この香りで彼もそろそろ起きてくるはずだ。蝶々のような人だとマリーは思う。そんなにかわいらしいものではないけれど。
「いいにおいだね」
 寝ぼけ眼を擦りながら彼が下りてくる。髪は寝癖でぼさぼさだ。
「庭のトマトが実っていたね」
「あら、気付いた? 今日の夕飯に使おうと思うの」
 ケインはすっと目を伏せた。
 ああ、そんな顔をしないで。最後まで笑っていたいの。ささやかな願いだけれど。マリーは笑って送り出すと決めたのだ。
「今日はね、ハンバーグステーキなの。ケインの大好物でしょう」
「それは、楽しみだな。マリーの焼き加減はちょうどいいんだ」
 時間は刻々と進む。お別れの時間に少しずつ近づいている。ほんとうはいなくなってほしくない。けれど、どうしようもないことだということも知っている。それなのに、街はいつもと変わらない。彼がいなくなるのに、庭に咲いている花も往来を歩く人も何事もないかのようだ。彼がいなくなるのに。もう、戻ってはこないのに。
「今日は天気がいいから二人でピクニックにでも行きたかったわ」
「そうだね、今度行こうか」
 ケインはからりと笑った。「今度」はいつくるというのだろう。そんな日が訪れないだろうということは、彼だって知っている。彼を待ち受けているのは、平凡な、けれど幸せな日々ではないのだ。罪と汚濁に塗れた世界だ。
「ええ、――サンドイッチをたくさん作るわ」
「場所はどこがいいかな」
「リグウェルがいいわ」
「眺めがいいし人も少ないし、そこがいいかもね」
 ゴーン、と振子時計の音が響く。十時を告げている。普段ならなんてことはない出来事でさえ、今は重大な意味合いを持つ。
 カップを持つ手が震えているのがわかる。きっとケインも気付いているだろう。
「もう、行かないとね」
 ケインがすっと席を立つ。
「あ……」
 行かないで。マリーはそう言いたい気持ちを抑えた。
「マリーの歌声が好きだったよ、もう聴けなくなると思うとなんだか寂しいね」
「いつも歌うわ、あなたにも届くくらい大声で」
「あの唄を聴いていると、故郷を思い出すよ。僕の国の唄なんだ。――知ってる? あの唄はね、平和を願う唄なんだよ」
 ぽろぽろと大粒の涙が流れた。
 泣かないと決めていたこともマリーは忘れていた。
 どうして? そんな疑問が浮かぶ。ずっと、気づかないように、考えないようにとしてきた。そうしなければ、彼を引き止めてしまうから。戦地に赴く彼に、そんなことをしてはいけないのに。
「待ってるわ。あなたが帰るのを、ずっと待ってるわ」
 ケインは無言で頷いた。
 この街も人々も庭の木々もいつもと変わらない中で、二人だけは違った。これからは新しい、二人にとっての日常が始まる。それは決して、いいことであるとは限らなかったけれど。





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