愛欲 T

 閑散とした室内で男は書物に目を通していた。
 黒い長髪に光の宿らない瞳。喪服のように黒いスーツに黒いネクタイ。薄い唇で細葉巻をくわえながら細い指で頁を捲る。
 物語は佳境を迎え、文字を追う目の動きも必然と早くなる。結末はどうなるのかと気になって仕方がないところ、水を差すようにドアからノックの音が響いてきた。
 居留守でも使おうかと考えた矢先、無視をするには些か都合の悪い相手の声が自分の名を呼び、息をついた男は書物に栞を挟むとパタンと本を閉じる。
「お待ち下さい我が君」
 男は椅子を立ち上がるとドアに向かう。が、ノブに手を伸ばした瞬間、扉は勢いよくこちらに向けて開け放たれる。
 ガンッという鈍い音と共に、したたかに鼻を打った男は痛烈な痛みに思わず声をあげた。
「痛いですよ我が君。ドアの向こうに人がいることを想定して開けて下さ──」
「アイザックー! 僕が何度ノックしたと思ってるの? もうホント痺れちゃったよぉ!」
 人の話を全く聞いていない、それ以前に自分が開けたドアで怪我をさせたかもしれないというのに、それすらも気付いていない青年は、屈託のない笑顔を浮かべると、鼻を押さえている相手にようやくおかしいと気付いて首を傾げる。
「アレ、どうしたのアイザック? 鼻水? それとも鼻血?」
 やはり自分のせいでこうなったことに気付いていない主は、心配そうに鼻を押さえる執事の顔を覗きこむ。
「いえ、何でもありません。それよりも我が君、その格好は一体どうされたのですか?」
 表情一つ変えることなく、足の先から髪の先までを順に見つめた男は、いかにも風呂から上がりたての姿に内心呆気にとられていた。
「そんな格好ではせっかく湯に浸かっても風邪を召されます。今、服をお持ちしますので少々お待ち下さい」
 アイザックはそう言うと自室を抜けようとするが、腰にバスタオル一枚を巻いたままの相手が邪魔をして、どうにも外に出ることが出来ない。
「……カイン様、おどきになって下さい」
「それがさぁ、アイザック……僕、まだお風呂入ってないんだよねぇ。アイザックのとこ貸してよ?」
 どうどうと言いながら、黒髪の男を押し退け部屋に侵入したカインは、キョロキョロと辺りを見回すと風呂場へ続く道を歩きだす。
 本来、靴を履いて歩く床を素足で歩いてきたため、足の裏は見事に真っ黒になっている。
「我が君、生憎、私の部屋の浴槽にお湯は貯まってませんよ」


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