短編
極道さんに口づけを
俺は里帰りをしていた。正しくは、「実家に帰らせていただきます」の状態。
ここまで言えば分かると思う。俺と組長さんは喧嘩の真っ最中だ。
もうあんな極道なんて知らない。実家に帰れたのも、組長さんが帰したからだ。悪いと思ってるなら引きとめるくらいすればいいのに。
杉野家。母と父、姉がいる実家。ここに組長さんが押しかけることはないと思ったから、俺は昨日からここにいる。
俺がいない屋敷で、十分に反省すればいい。
でも不安がないわけじゃないんだ。
だって、別れようなんて言われたら、俺はどうすればいいんだろう。
――極道さんに口づけを――
「真人、これをお願いね」
「あ、オッケ」
突然帰ってきた息子を何も言わず迎えてくれた母親はにこにこと笑った。渡された昼食を運びながら罪悪感が沸かないわけじゃなかったが、俺はそのまま甘えている。
「あれー?真人じゃん。何、クビにでもなった?」
「姉貴…違うよ」
姉がからかってくるのに俺は力なく返した。言うならクビになったのじゃなく、辞めてきたのだ。
勢いで出てきてしまったが、組長さんは許してくれないだろう。
こうなったら今度は帰れない。
「ふうん?ま、いいけどね。じゃ、私行くわ」
「早く帰ってくるのよ?」
「嫌ね、彼氏もいないもの。寄るところなんかないわよ」
姉はそう言って出て行ってしまった。仕事に行ったのだろう。それは分かっても、俺の気持ちは沈むばかりだった。
何をしていても、思い出すのは組長さんのことばかり。ため息ばかりつき、どうしようもない。実家に帰ったところで何も変わらないということはよく分かっていた。
「…ねえ真人」
「ん?何、母さん」
「何があったの?」
「え?」
「京楽さんと、何かあったんでしょう?」
俺は目を見張った。組長さんとのことは何も話していないのに、何故分かっているのだろう。
「分かるわよ〜。アンタを生んだの誰だと思ってるの?」
「それは母さんだけど」
「貴方が京楽さんと付き合ってる事くらい知ってるわ。京楽さんが来たもの」
「来たぁああ!!?」
驚愕の真実に俺は目を剥いた。母はにこにこと笑いながら頷く。
「だから話しちゃいなさい」
「…分かったよ」
そして俺は喋り始めたのだった。
天下の京楽忠孝は苛々していた。それはそれは不機嫌だった。今下手なことを言えば銃をぶっ放されることは間違いないだろう。その背後に毘沙門天が見えるのはきっと幻覚ではない。
おかげで構成員は全員ビクビクしていた。若頭でさえビクビクしていた。京楽が眉を跳ね上げただけで総土下座、舌打ちなどすれば全力で原因を排除した。
だが本当の原因は、彼らにはどうしようもないことだった。
彼の不機嫌の原因――京楽忠孝の愛しい愛しい恋人、杉野真人が家出してしまったことが、全ての元凶であった。
今日、交渉のために京楽のもとを訪れた金融会社の社長はだらだらと冷や汗を垂らしながら京楽の殺気をひたすら受け止めていた。上納金を少し待って欲しいという交渉だったが完全にタイミングが悪かった。
差し出した書類はあっという間に灰皿で灰にされ、先ほどから京楽は乱暴に足を組みソファに座って煙草を吸い捲くっている。
明らかに不機嫌MAX。ビシバシと当たる殺気はそれだけで死ねる気がする。
「――おい豚」
「ひっ」
ついに名前すら呼ばれなかった。伝説のサディスティック忠孝降臨である。丸々と太った社長は今だけ自分の体型を恨んだ。借金の取立てがうまく行かなくて、上納金を納めるのを一週間だけ伸ばして欲しい。それは普段なら通る話だった。上乗せしなくてはならないが、それでも通っていた話だったのだ。
それが今回は、絶対に通らない。
「テメェこれで何回目だ?」
「六回目、でしょうか」
「七回目だ!!」
ガツンッと京楽は机を蹴り上げた。スライドした重いそれは社長の足を直撃する。折れたかと思うほどの衝撃に社長は悲鳴をあげかけ、京楽の眼光にそれを何とか押さえ込んだ。
今ここで悲鳴を上げれば「うるせぇ」と殺されかねない。
マジでコンクリで東京湾に沈められる。それだけは避けたかった。社長には可愛い愛娘が二人いるのだ。今沈められるわけにはいかないのだ。
「いいか?一時間たりとも伸ばすことは許さねェ。金がねェならてめぇの娘でも妻でも渡しやがれ。使い物にならなくなる前には上納金分くらいは稼げるだろ。なんならてめぇの娘の臓器でもいいぜ」
京楽の目が底光りした。声が地獄の底を這うように低い。遅れれば本当に妻でも娘でも連れて行かれるだろう。
「分かったか?今後一切、遅れは認めねェぜ?」
「は、はいっ!」
社長は床に頭を擦り付けるようにして謝罪した後、もつれる足で走り出た。無様なその姿を詰まらなさそうに見送り、京楽は煙草の煙を吐き出した。若頭の神田がテーブルの位置を直す。
「組長、今夜はどうされますか」
「予定はねえだろ」
「へえ?」
楽しそうな声がかかり、京楽はめんどくさそうに(不機嫌さをさらに増して)振り向いた。いたのは気の置けない幼馴染、瀬野尾である。
「んじゃ、俺とちょっと話そうぜ?」
「アァ?誰もブチ込まれてねえぞ」
「そんな話じゃねえよ」
瀬野尾はどかりとさっきまで社長が座っていたソファに座った。京楽は何も言わない。
神田は素早く人払いして姿を消した。それを残念そうに瀬野尾は見送り、煙草に火を点けた。
「荒れてんなぁ忠孝。そんなにグリズリーに逃げられたのがこたえたのかよ」
「うるせェ」
鬼の京楽とか、鬼神とか龍とかいくつも異名を取った伝説の極道がたったひとりの男にここまで振り回されている。煙を吐き出しながら瀬野尾は心の中で嘆いた。
「つうかさ、忠孝。お前、これを機にグリズリーを手放せ」
「アァ!!?」
瞬時にキレを増した殺気に眉をしかめながら瀬野尾は煙草を振った。灰が落ちるが気にしない。これくらいでビビッていてはこの男の親友や幼馴染などやってられないのだ。
「あのグリズリーに振り回されすぎだ。お前は天下の京楽忠孝だぜ。そんな情けねえ姿、晒されてんだぞ、現に今。これを機にすっぱりさっぱり忘れろ」
「 で き る か !! 」
京楽は即座に否定した。出来ない、出来るはずがない。そんな京楽に瀬野尾は呆れたような視線を寄越した。今までの女たちは皆遊び以下だったくせに真人には真剣になって、悪く言えばのめりこんでいる。
それこそ、家出などというバカにされたと取られる行為を愛人にされても鉄砲をぶっ放しに行かないくらいに。
「じゃあさっさと連れ戻しに行きやがれ」
「必要ねえ」
「は?」
今度こそ瀬野尾は絶句した。苛々して不機嫌マックスで殺気までマックス振り切っているくせに京楽は必要ないという。
こういうとき、幼馴染が分からなくなる。
「あっちから帰ってくるさ。じゃねえと俺が許さねえ」
怒りも露に言い切った京楽から、「真人帰還」というメールが三日後に届くことを瀬野尾はまだ知らなかった。
そして真人も、自分が三日後に組長さんに熱いキスをしていることなんて夢にも思っていなかった。
終
おまけ
「何で喧嘩したんだよ」
「組長さんのポケットにホステスの名刺があって…ナイトのアケミだったけど」
「あ、そのクラブ、潰されたぞ」
「え」
潰されました。
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