初めまして未だ見ぬ恋人
それは例えば薬を調合している時。或いは茶屋で一服する時。或いは床についた時。
ふとした瞬間に記憶の中へ反芻される情景があり、顔がある。
視界に収めた記憶の新しいものから、相当古く懐かしいものまで。出逢った人間、対峙したモノノ怪──千差万別の"形"。語り聞き、時に見届けた"真"と"理"。
過去を反芻するなど、薬売りには珍しいことだ。常に前を見ているとは間違っても言えまいが、過去に固執するほど人足り得たこともなく。
それでも、思考へ巡り往くそれが、走馬灯であることは、漠然と、理解していた。
「……もう、そんな…時期、ですか…」
ごりごりと、薬を調合しながら呟く。
声は常のように凡そ感情らしきものを窺えさせぬ平淡なものであり、その表情もまた然り。
手を止めぬまま、磨り終えた薬を紙の中へ丁寧に包み込んでいく。そうして出来上がった薬を一つ一つ薬箱の引き出しにしまい、一息吐いた。
いつの間にか陽はすっかり落ち、射し込んだ月明かりと灯籠の火が暗い室内に映える。
簡素な座敷の中央に正座していた薬売りは、徐に自らの頭巾を外し、結い上げていた利休色の髪を下ろした。
その際に外した、翡翠の簪を暫し見つめていたかと思えば、真白い布に包み、薬箱の引き出しの奥へと丁寧にしまいこむ。いつも左横髪に留めた露草色の髪留めは、考えた末にそのままにしておくことにした。
徐に、双眸を伏せる。
閉ざした瞼の裏に見えるのは闇ばかりながら、薬売りはそれを恐ろしいとは思わなかった。認知しているということは、その闇が見えているということ。闇は、"無"ではないのならば、恐れる理由はなかった。
そ、と開いた視界の中に代わり映えのするものは見当たらない。それでも、薬売りは其処へ確かに存在する者へ、声をかけた。
「……今宵は、出てこられない…おつもり、ですか…?」
返事はない。
けれど問い掛けに呼応するように、薬売りの背後へ伸びた影からゆるりと、一人の男が姿を現した。
其処から、動く様子は全く見せない。
薬売りが振り返らなければ、互いの双眸が交わることがないことは重々承知しながら、薬売りもまた動こうとはしなかった。
整然と座敷に座ったままな薬売りと、その背中を見つめ続ける男。
窓から差し込む風が生暖かく、二人の間を駆けていく。灯籠の炎がゆらりと揺れれば、当然のように二人の、否、現在実体を持つ薬売りの影が大きく障子に揺れた。けれど、その影はどこか、淡く、儚い。
「其処で、見届けて下さる、か。それもまた…良いでしょう」
青破璃の瞳が再び眸の奥へ伏せ、また、開かれる。
徐に、薬売りが帯から抜いたのは翡翠と紅玉を幾つか嵌め込み、金色の装飾を施した短剣。柄尻に鎮座した禍々しい獅子の面が、白い手の中でかたかたと揺れているのが遠目にも男には解った。
例えば、今手を伸ばしてその背を抱けば、何かが変わるのだろうか。そんな切望にも似た感情が胸中を過り、馬鹿馬鹿しいと冷静な自分がそれを切り捨てる。
これが摂理なのだと、絶え間無く過ぎ行く時の流れに屈した自分達に課せられた罰なのだと、知っているだろう、と。
だからこそせめて見届けよう。
枯渇した魄(はく)がその肉体と共に生まれ直す様を。彼自身がその手で、自らに与える幾度目かの終焉を──
「示す"形"は"薬売り"──」
カチン、と獅子の歯が音を鳴らす。
「その"真"は、人の世と相容れぬモノノ怪の"形"・"真"・"理"を剣に示す為の、傀儡」
カチン──、二度目の音が鳴る。
残るは一つ。
その時、唯淡々と眼前を見据えていた薬売りの青破璃が、柔らかく細められた。
慈しむように剣の鞘を撫でる様に、男はは、と微かに双眸を見開く。
「半身たる剣の使い手を慕い、その生涯に付き添うことを誓った──それが…"理"、」
何故、常ならば身を震わす程の悦びを伴う言葉も、こんな時ばかりは悲しみしか覚えることが出来ぬのか。
彼が、薬売りが、至極満ち足りた微笑みを浮かべているせいなのかは解らぬけれど。永久の別れには成り得ないと知りながら、男はいつもこの瞬間を見ることが嫌いだった。
カチン──、最後の音が鳴る。
それが全ての合図。
「"形"・"真"・"理"の三つによって、剣を──解き、放つ…!」
それが一つの終わり。
獅子の双眸が妖しく光り、その唇がけたたましく嘶いた瞬間、視界をあまねく、白亜の光が、包み、込ん、で ────
「──馬鹿、ですね。…別れと言っても、お前が生きる永劫の、ほんの刹那に過ぎないというに…」
見渡す限り白に包まれた空間。
それはまるで白い座敷の中央のようであり、新雪の積もる庭のようでもあり、世界の何処とも知れぬ夢幻の場でもある。
その空間の中で、男は崩折れた薬売りの躯を抱いていた。
感覚そのものを曖昧にさせる白昼夢に似た世界の中で、常ならば必然的に腕へ感じる筈の重量は微塵も感じられず、麗人の儚さばかりが強調される。
微かに色を失い始めた躯は恐らく錯覚ではない。
けれども薬売りは、まるで常と変わらぬ呆れたような眼差しで男を見上げていた。遠慮もなく、馬鹿と宣う姿、口調、全て普段と何一つ変わらない、と、いうのに──
「…それは確かに"薬売り"ではあるが、"お前"ではない」
「"私"、ですよ。お前を慕い、この先も続く時を、お前と共に生き、お前を想いながら、同じように散って逝く……それが"私"──全て、"私"だ」
人の心は、弱く、儚い。
それでも人であることを求められ、人であることを望み、人として生きることを選んだが故に、薬売りには欠片の後悔も窺えない。
人として、男を愛したことを微塵も後悔はしていないと示すように、薬売りの眼差しも声音も揺るぎないものだった。
そう、知っている。告げた言葉は、一時のものと解っていながらも喪失の瞬間を疎むあまりの言葉の綾。
例え何度生まれ直しても彼は変わらない。だからこそ男は、彼に──
「嗚呼…そう、だからこそお前は、"私"に。全て同じ"私"だと知っているからこそ、変わらず" "と」
名付けたのでしょう…?
心を読んだかのように、優美な笑みを浮かべながら問う言葉に、答えは示さない。その必要はない。答えを彼は既に知っているのだから。
徐に薬売りは、虹色の光を刀身に宿した"退魔の剣"をゆっくりと男に差し出す。
予想していたそれを咎めることもなく、男は静かに右手へ受け取った。
その瞬間、群青の着物袖を飾る、蛾を模したような華やかな模様が、薬売りの顔を紅く彩る隈取りが消え去り、代わりと言うように男の褐色の肌には金色の紋様が浮かび上がる。雪のような白い髪と相俟って、金色をその身に刻んだ男の姿を、薬売りはいとおしげに見つめた。
そんな眼差しで見据えながら、紫紺の紅に彩られた唇で彼が何を求めるのか、男はみなまで聞くまでもなく理解していた。理解した上で、傍観者の座から降りたのだから、薬売りを恨むつもりは毛頭ない。
唯、不器用だと、思わずにはいられなかったが──
「…見届ける立場から離れ、身勝手にも舞台に立った罰、ですよ」
「……あぁ。理解しているさ」
握り締めた柄を手中で反転させる。逆手に剣を構え、男は大仰な溜息を吐き出した。今すぐにでも剣を投げ捨てたくなる己の本心を誤魔化すように。
嗚呼何と残酷な男だ、と半ば自業自得であることを自覚しながら呆れた声音でぼやき、剣を大きく振りかぶった。
相変わらず微笑みを浮かべる唇が、声もなく動く。その一言一句の動きをじ、と見据え意を解するや、男は初めて蒼い紅を引いた口を吊り上げて笑みの形を作った。
──私が優しいなどと、誰が言ったんでしょうかねぇ。
「嗚呼…全く、その通りだ──っ」
「っ──、!!」
振り下ろす。刺し貫く。
びくり、と陸に打ち上げられた魚のように跳ねた躯が、ごほ、と唇から赤黒い血を吐き出した。
薬売りの肌は新雪よりも真白く、他の色が鮮やかに映えることを知っている。特に鮮やかな赤色は見る者に寄れば倒錯的な美しさなのだという。綺麗なものを汚す背徳感とでも言うのか。
けれど、今この光景を過去幾度と見つめてきた男は最早、彼の白肌に如何なる赤が散ることも好ましいとは思えなかった。白が赤に汚される様、それらは凄惨な光景としか言えない。
それでも視線を外しはしなかった。薬売りもまた、苦痛の中にありながら決して男から視線を離そうとはしない。
力を失いつつある白い手が、そっと男の頬に触れる。紅と紫紺に彩られた唇が震えながらも笑みを形作れば、誘われるように男は唇を重ね合わせた。
全ては現実でありながら夢幻でもある。その中で舌先に感じたのは、紛れもない血の味。散り逝く命の味だ。
「…これで満足か?」
「…、…」
「こんな真似させずとも、俺はお前を忘れたりはしない。忘れたくとも忘れることなぞ出来ないというのに…」
「……、しか、た…ない、じゃ、な……です、か……」
如何にそれを自負しようとも、如何にそれを理解しようとも、尽きぬ不安はいつだって巣食う。そんな弱い心を持つ、人間なのだから。
最期の瞬間、せめて愛しいその手で──あまりにも残酷で、不器用な我儘。終焉をその手で築かせることで自らという存在を男の心に強く焼き付かせる為の。
決して、無意味ではないけれど、全ては杞憂に過ぎなかったが。
「…眼が……かす…で、きま、し…た…」
「…そうか。……もう休め」
「は、ぃ……、」
素直に応じるものの、半ばほど瞼の下りた青破璃の双眸はじ、と男の蘇芳を見つめている。
軈てそれが柔らかく細められ、この上ない至福に彩られる青に、思わず、抱き締める力を強めた。
「……さよ…なら。また…逢い、ま…しょ………"珀梅"…」
「…あぁ、直ぐに。だから今は眠れ、──"芙桜"」
呼び交わすは互いにのみ許す名。
軈て、ことり、と白い手が完全に力を失って躯の傍らへ落ちた瞬間、男が抱いた"薬売り"という"形"は光の中に消失した。
残るのは、さらさらと男の手中をすり抜けていく小さな紙吹雪。色とりどりのそれが何処とも知れぬ虚空へ流れていく様を、静かに見届け、男はそっと双眸を伏せた。
その拍子に一滴、零れる透明な雫を見るものは唯一つ、その左手に携えた"退魔の剣"だけ。
程無く、"退魔の剣"を介して再び人の世へ生まれ直す彼を想いながら、流すのは一滴だけと決めている。
そうして再び出逢う彼に男は言うのだ。別れの挨拶を言わずして、矛盾していると知りながら出逢いの挨拶を。幾度目になるとも知れぬ再会は、もう、間も無く──
初めまして未だ見ぬ恋人
(我が行きは 七日は過ぎじ 龍田彦 ゆめこの花を 風にな散らし)
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ぐだぐだと長くなって気付けばメール投稿の文字数ぎりぎり。
これだけだとまるで訳が解らないですよね。当家の薬売りさんは、"退魔の剣"が作り出した人に近い存在。剣の人は元人間で、今はアヤカシに近い存在。その関係性はまた別の話で。
ちなみに薬売りさんは記憶もある状態で生まれ直してますので、まるで問題はないのですがやっぱり悲しいという話なんです。
実はとある部分、反転させると当家の二人の名前が見れます。安易な名前ですから、各々好きな名前を入れてくださって構いません。
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