その眞理に舌はない
暗い、昏い、夜だった。
物悲しげに自己主張する虫の鳴き声が此方、彼方から響き渡り、闇へと溶けるを繰り返す。ありふれた情景。
じ、と灯籠の火が揺れる。
障子に締め切られた訳でもなく、されど照らす光はその一つだけ。
頼りなく灯された炎を視界の端に、淡い橙に映える柱に寄り掛かる薬売りの背後から、不意に伸びる浅黒い、手。
「…、あぁ、」
そうか。と。
得心したように、独りごちた呟きに、闇から姿を現した男は微かに首を傾げた。
回された褐色の手は、揺れる炎の光に照らされながら、微動だにしない薬売りの白い肌に触れる。
脆い陶磁器に触れるような慎重な手つきは優しく、或いはもどかしい。の、だけど。
一つ、否やを唱えれば、瞬く間に離れるだろうその腕が、素直な童のようで愛らしく思える。
頬から顎、首筋を辿る長い指が、くい、と後方へ細い躯を引き倒した。それに抗うことなく、しな垂れるように身を預ければ、絹糸のように柔らかな雪白の髪に頬を擽られ双眸を細める。
灯りから遠退けば、視界の闇は必然的に深まった。その、中央で、薬売りをじ、と見据える蘇芳の眼差し。
「月が、見えないと思いましたら…」
何をするでもない。
唯、慈しむように、利休色の髪を梳く指先を甘受しながら、薄闇に閉ざされた空へ視線を這わせる。
ゆらり、ゆらり、闇の端で揺れる炎。照らされて解るお互いの顔(かんばせ)。此方、青を纏う薬売り。此方、金色を纏う男。
睦言を交わすこともなく、唯、寄り添う。
紫紺の紅に彩られた唇が、ゆるりと弧を描いた。男の双眸が闇の中に細まる。
「お前が、出てきたから、ですね…」
「……、俺の、」
せいなのか。と。
些か不満そうに問い掛ける声音、その表情の、何といとおしいことか。
くすくす、くす──堪えきれぬ笑みを音に乗せ、薬売りはそっと、男の頬へ指を這わせた。褐色に乗る白が炎に照らされ、赤々と、熱に色付くように。
その指先を受け入れながら、男はやはり見つめている。咎めるような鋭さを持った、その血を思わす深い紅の中で、揺れている様が鮮明に窺える一抹の不安。
嗚呼、全く何を怯えているのだろうか。
「──…月と、お前を、比べるなどと…」
その蘇芳に、一層笑みを深めれば、薬売りは紫紺を咲かせた爪で、男の紋様をなぞるように辿る。
よもや、今更自分が唯綺麗なだけの光を惜しんで、目前の男を蔑ろにするとでも言おうものならば、それは
「愚の骨頂、でしょう?」
天上の光に焦がれる理はない。
決してこの手に届いてはならない、本来は届かぬ光に恋い焦がれてしまった。触れてしまった。それが真。
瞠目する、蘇芳に微笑んで蒼を引いた唇に口付ける。褐色の頬に両手を添えて、間近に迫った顔を視界一杯に映せば、もう炎は見えない。
光など、あってもなくても同じなのだ、と。
「お前は、狡い…」
不貞腐れたように呟く声。けれど接吻を拒むこともなく、更にと求める指先が些か強引に薬売りの躯を反転させ、己と向かい合わせにさせる。
するりと着物のあわせから入り込んだ手に温もりはなく、空気が入り込んだような仄かな冷たさが身を震わせた。
くつくつ、と喉奥で鳴る笑い声は、我ながら気まぐれ奔放な猫のようだ、と思考の片隅に思う。
「…泡沫の逢瀬ならば、愉しまねば、勿体無いで…御座いましょう…?」
意地悪く、吊り上げた唇の奥。犬歯煌めく闇の中。
赤い、紅い舌先が誘うように、男の唇を掠めた、刹那──灯された炎は風に消え、部屋に残されるのは闇と、衣擦れの音ばかり──
その眞理に舌はない
(光無きぬばたまの闇に呑まれて尚、傍らに君在りて、其が幸福)
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もっと薬売りさんを妖艶かつ優美に書きたいのに単なる小悪魔になる。あな悔しや文章力の枯渇…っ!
妖艶と小悪魔は別物です(当たり前)
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