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やがて忘れる訃音


 徐に見上げた空は、西側が紅に染まり、対する東側は藍色を深めて夜の訪れを告げようとしていた。
 黒鴉が不吉に嘶くを遠い出来事のように、長い耳へと捉えながら、薬売りは空から視線を外して、次いで傍らに佇む樹へ移す。
 冷たい凩に晒され続けた葉は赤茶けた色へと変色し、夏場に見せていたであろう深緑の面影は欠片も残らない。
 こうして、時は着実に移ろい続けるのだろう。人が認知しようとしまいと、川の流れと同様に止まることを知らぬそれは、緩慢にこの世を廻っていく。
 人はそうした廻り往く時の中の、限られた時間を生きていくのだ。全の中から見れば遥かに短い時を、当たり前のように受け止めながら、軈て終えるその日まで。
 ──薬売りは、"死"という事象こそ当然の如くその身に纏わりつくが、一般に人が迎える終焉たる"死"とは無縁な、異質な存在だ。
 薬売りにとって"死"は"終焉"ではない。幾度と繰り返す"生"への"繋ぎ"であり、"始まり"だった。
 人の一生とは"死"を迎えればそれまでの"形"を伴うもの。しかし、薬売りの"生"は"死"を経て再び同じ"薬売り"という"形"で始まる永遠の輪廻。そこに"終焉"という結末を導くには、この世に絶え間無く生まれ出でるモノノ怪に等しく"終焉"を与える他になく。
 そんな"生"を、繰り返す程に薬売りの中で時の概念は薄まっていくのだ。気が付けば季節が一巡りしてしまうように、日々も変わらず刻み続ける時の針は時に恐ろしい程の早さで薬売りに現在(いま)という時間を突き付ける。
 だが、薬売りはそれを嘆くことも厭うこともしない。
 そうした感情を無意味だとは思わぬが、心を砕いたところで時が巻き戻る筈がないことは熟知している。薬売りは唯、それらをありのままに受け止め、受け入れるだけなのだ。

「──薬売りさぁん!あんまり外に居ると風邪引いちゃいますよぅ!!」

 不意に、背後から生じた呼び声に、薬売りは中庭の樹へ向けていた双眸を一度だけ、瞬かせる。
 呼び声は年若い、それ故によく通る少女のものだ。視線だけで振り返れば、健康的に日に焼けた褐色の肌と、綺麗に結った鳶色の髪に快活そうな黒瞳が確認できる。
 それは唐突に、薬売りの記憶に残る少女の面差しと重なって、刹那の内に露散した。
 似てはいるが、けれど彼女は"彼女"ではない。また"彼女"であったとしても、それだけだ。軈てまた、記憶の彼方に埋もれるだけの、思い出。或いは──

「もうっ、薬売りさん!聞いてるんですか?!」
「…聴こえて、いますよ…。今、戻ります…から、」

 背を向けていた少女に向き直り、真一文に結んでいた筈の唇に弧を描いてみせる。
 すると、一瞬だけ少女の頬が朱色を帯びた様子を見せたが、次の瞬間にははっと我に返ったように、健康的な淡い褐色を取り戻した。誤魔化されては、くれないらしい。
 何処か咎めるように薬売りを睨み付ける少女に、徐に片手を伸ばした。
 不自然な程の白さを持つ薬売りの指先は、少女の鳶色の髪に触れるか触れないかの距離で、何かを掴み、そのまま離れていく。
 きょとん、と双眸を瞬かせる少女の目前へと移動した、淡い紫苑の花を咲かす指が摘まみとっているのは、見事な朱の色に彩られた一枚の紅葉。
 認知するや否や、再び頬を染めて慌て出した少女に、そうと気付かれぬ程度の目元を柔らげて、吹く風に手中の紅を拐わせる。
 ひらりと虚空へと誘われた姿は、優美ではあるが、結局のところ散り逝くものの情景なのだ。そうやってこの世の命は巡っていくのだろう、時に人知れず──

「──美代さん」
「は、はいっ?!」
「…入りましょう、か…」
「…そうですねぇ、夜は冷え込みますし」

 賛同するや、お茶でも淹れます、と足早に奥へと消えていく背中を最後まで見送ることもせず、薬売りはまた、空を見上げてみた。
 先程よりも深く近くなった藍色とは反対に、薄く遠くなった緋色。この時刻の空は移ろい易く、その変化は目まぐるしい。
 ──この"生"を、繰り返す程に薬売りの中で時の概念は薄まっていった。気が付けば季節が一巡りしてしまうように、日々も変わらず刻み続ける時の針は、時に恐ろしい程の早さで薬売りに現在(いま)という時間を突き付ける。
 だが、薬売りはそれを嘆くことも厭うこともしない。
 そうした感情を無意味だとは思わぬが、心を砕いたところで時が巻き戻る筈がないことは熟知している。薬売りは唯、それらをありのままに受け止め、受け入れるだけ。
 ──等と、もっともらしく繕ってみせたところで、真実はそんな殊勝なものではない。
 認知する意識の外で、絶え間無く流れ、廻り往く時の中の事象。得たものも失ったものも、出逢ったものも別れたものも、薬売りにすれば何れ記憶の彼方に埋もれるだけの、儚い思い出。或いは、そんな思い出にすらならぬ、些末事に過ぎなかった。
 そして今もまた、時は緩慢と流れていく。認知しようとしまいと、無情に、密やかに、記憶をその大河に沈めていきながら。
 その中で、決して色褪せない一片を胸に抱いて、薬売りはこの世に在り続けるのだ──





やがて忘れる訃音
(悲しみも切なさも寂しさも、確かにこの胸にはあったのだろう、けれど──)









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薬売りさんにとって剣さんに関すること以外は取るに足らない出来事に過ぎないという話。薬売りさんは基本的に淡白で薄情で気紛れな人。剣さんの前では別人ですがね、凄い二面性だな←

作中の彼女は、きっと皆様のご想像通り。別に同居とかではなくて、中居さんとかそんなのです。





あきゅろす。
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