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艶やかな花殻〜芙桜〜


 晩夏の生暖かな風が白い頬を擽る。
 近く、歩み寄る季節故にか盛夏程の熱量を伴わぬそれは、しかし幾重と重ねた着物の上からではやはり息苦しさを感じさせた。
 煽られて、さらさらと頬を滑るように撫でる利休色の癖毛を鬱陶しそうに払い退けて、薬売りは小さく吐息を溢す。
 無意識に吐き出した吐息の一つすら夏場には気鬱を助長させる動作に感じられるのは、存外にこの暑さに辟易しているからだと知れた。
 徐に、薬売りは休息と称して身を落ち着けていた木陰から僅かに離れ、その手前に佇む川の畔へと腰掛けた。高下駄と黒い足袋を脱いで傍らに置き、しゅるしゅるとさらしも解いていく。
 平時は外気に晒さぬ素足は、日晒しにされた顔よりも白く、血の気を窺わせない。
 自然の色と、一目では判断し難い造形的な白は例えるならば陶器人形。しかし人形とは違い、確かな意思を宿し、人の世に生を受ける命だからこそ、その色は見る者の眼には倒錯的に映るのか。
 ちゃぷり、と指や唇と同じ紫紺を散らした爪先を水面へ浸ける。生温い空気に反してほんのりと冷たい水中に両足を浸すことで、鬱蒼とした心中をも沈めることができたような、錯覚。
 ほぅ、と唇から零れた吐息は先程のような重苦しいそれではなく、安堵に満ちたもの。そうしてみて漸く、身を擽る風が心地好いものだと感じれた。
 ぱしゃり、ぱしゃん…、何とはなしに爪先で水面を蹴り上げれば、弾けた飛沫が幾重と澄んだ川に波紋を生む。
 人の通らぬ道では静寂を破るのは鳥の囀りや風に煽られた木々の音、遠く近くで叫ぶように鳴く蝉の声ばかり。別段人の気配が嫌いな訳ではないが、酷く、落ち着いた気分だった。
 理由もなくこれほど穏やかな心境を抱けることは珍しく、徐に空を仰いだ、その時。視界に映り込んだ景色に瞠目する。
 ひゅ、と息を呑んだ時にはもう遅かった。
 ぐらりと揺れたのは視界と、意識。
 暗転していく風景。絵画にも似た、一枚の光景。それは現実か、記憶の中の過去、なのか。唯一つ確かなことは、"其処に在る"という事実、で。
 ──風が、一際強く、"其処"で揺れる淡い淡紅色を散らして、天藍の随へ誘う様、が──はら、はら…、と…。

(──あぁ…、)

 遠くに聞こえたのは水ではなく風の音。鼻孔を擽る柔らかな花の香。その理由を、悟った瞬間に薬売りの意識は深く、浅く、沈んだ──





























 揺れる池の水面をいくら覗けど底は暗く、その果ては知れない。底にて眠る植物の存在など、聞かねば気付くことも出来ぬほどに、深淵は深く闇を強調する。
 後幾月と過ぎればこの深い水底の泥から茎を伸ばし、色鮮やかな緑色の葉と、淡い淡紅色の花を水面に露とするのだろう。しかし今は、違う淡紅の欠片が水面を幾重とたゆたっていた。
 はらはらと、僅かな風で儚く散り逝く小さな花弁は池の傍らに佇む枝垂れ桜から零れるもの。縁側にだらしなく身を横たえたまま、ぼんやりと池を眺める薬売りの視界に、それは幾度も入り込み、凪いだ箇所から水面を波立たせた。
 徐に、伸ばした指先で軽く、水面に乗った花弁の一枚へ触れてみる。
 降りかかる圧力にまた少し波紋が広がる中で、真白の指が感じ取ったのは冷たい水の感触だけ。ひらり、と手の甲を掠めた花弁さえも、気に留めねば風よりも希薄な存在であるかのように、物理的に自らを誇示することを知らない。
 この花弁一枚が散ったところで、気に留める者はいないだろう。気付く者すらいないかもしれない。それが幾重と合わせて散り逝くからこそ、美しいと、儚いと、感じることができる、不思議な春花だ。

「──美しいな」
「……貴方も、そのように感じるの、ですか。意外に、凡庸な感覚を…お持ちのよう、で…」

 背後から聞こえた声に、返す言葉は皮肉でも嫌味でもない、単なる感想。
 聞き慣れた声の主は、振り向かずとも瞼の裏にその姿が焼き付いている。振り向かずに池へ視線を落とし続けていても、近づいてくる気配に彼が今どんな顔をしているか、大体の見当はつくのだ。
 と、いうのは所詮単なる言い訳、で。実際は程好い温もりを宿した縁側の心地好さに、身動ぎするのも億劫になっただけである。
 それが気に障ったのか、単にそうしたかっただけか──恐らくは後者の理由から、不意に腕を掴まれ些か強引に躯を起こされたかと思えば、褐色の腕の中へと抱き込まれてしまった。
 背後から抱える形で、ちょうど後頭部が男の肩口に凭れるような体勢。反転した視界は、唯真っ直ぐ前を見据えていても薬売りを見据える蘇芳を捉えてしまう。
 漆黒の中に映える生命の赤。苛烈に輝けば血の色を思わせるそれは、今は慈しみを帯びた優しい太陽の色に見えた。
 さらり、と緋色を咲かせた浅黒い指先が淡い利休色の髪を撫でる。

「花を愛でる情緒は、無いとは言わないが今は当てはまらん。あれは、お前に似ている…故に美しいと思った。…それだけだ」
「私が、あれ、に…?」

 ぱたりと瞬いた青破璃の双眸。
 心意を窺うように男の眼差しを見上げる様は、不可解というよりは不思議だと言わんばかりで。
 似ても似つかないではないか。唯モノノ怪を斬るに必要な、"形"と"真"と"理"を探し示す為だけの傀儡を、よもや桜に重ねるなど。
 けれど男は薬売りの困惑を他所に、言葉を撤回する様子もなく、ひらりと舞い落ちた花弁を空いた片掌に乗せた。
 重量など無いに等しい淡紅色は、瞬く間に風に飛ばされていき、数多の中の一枚となる。最早、どれが先の一枚であったかなど、判別はできない。

「木そのものが、ではない。この数多の中の一片、多くの中に潜みながら"其処"に確かに存在し得るもの。人知れず散り逝き、人知れず咲き誇る…その一片の花の、凛とした気高さや潔さから成る美しさと儚さが、お前に似ていると思ったのだ」
「……人知れずとは…随分寂しいこと、です、ね…」
「構わぬだろう。他者がどうであろうと、俺がそれを認知していれば」
「…、」

 他の誰でもない、この男だけが、咲き誇る時と散り逝く時を見届けるのだと──迷いもなく告げるその言葉に、薬売りは瞠目した。
 慈しむように利休の髪を梳く褐色の指が、時折頬を掠めて僅かにくすぐったい。しかしそんな些細なことはまるで気にならなくなる程にその言葉へ意識を奪われる。
 それは、何と甘美な囁きなのだろうか、と──嗚呼けれども、

「素敵では…ありますが、できるならば…もう少し強かな花に、例えられたいです、ね…」
「…例えば、何だ?」
「そうですね、例えば…其処の水底に潜む蓮華──"ふよう"の花にでも、」
「…ふよう、?」

 聞き慣れぬ言葉に眉根を寄せる男の片手を取り、薬売りはそっとその掌に、左手の人差し指で字を描いた。
 褐色の肌上を滑るように、一角一角を淀みなくなぞる真白の指先を男はじ、と見据える。描かれた字は"芙"と"蓉"──芙蓉、と。

「芙蓉…、蓮華にそのような名があるのか」
「素敵な響き、でしょう…?しかし花は水底の泥に根を張り、其処から茎を伸ばして夏の日、太陽が山々より出る頃に花開き、刹那の時に閉じてしまう。気紛れで、実に強かだ…」
「確かに、お前の好みそうな花、だな」
「ふふ…」

 上機嫌に笑む薬売りの頬を、男はやはり愉しげに撫でた。長い爪で傷付けぬようにと、気遣いながら触れてくるそれから伝わる優しさ。込み上げるのはいとおしさ。
 何と争うこともなく、緩慢に流れていく空気が唯、心地好い。はらはらと座敷の中にまで入り込んでくる花吹雪の中で、他愛ない言葉を交わし、寄り添い合う。それだけのことが、至上の幸福。
 穏やかな陽射しを浴びながらの一時に浸れば、徐に、男は薬売りの片手を捕らえた。先程薬売りがしたように掌を上へ、その上を浅黒い指先で一角ずつ、なぞっていく。

「"桜花"で、"おうか"…」
「?…はい、」
「だが"桜"にはもう一つ、読み方があったな」
「……」

 問い掛けではなく、独り言めいた呟きに薬売りは答えなかった。気に留めることなく、男は更にと造形的な白い掌の中へ、二つの字を描いた。
 "芙"と"桜"──見慣れぬ字の組み合わせに眉を潜める薬売りに、男は控えめな笑みを唇に敷く。そして、極当然のことのように囁いた。これを、お前の名としよう──と。

「……私の、名?」
「蓮華のように気紛れで強か、しかし桜花の一片が如き美しさと儚さを併せ持つ…お前によく似合うだろう」
「…寧ろ、勿体無い…御名、ですよ」
「不服か?」

 問い掛けに、薬売りは大きく頭を振った。
 不服など有り得る筈がない。男が与えるものを、どうしたって自分が拒める筈がないのだ。
 唯一薬売りの自由となる筈だったこの心を、捧げてしまった半身にして伴侶を。

「…いいえ、いいえ…不服では、ありません。その逆…至福の慶びに、御座います」
「では、」
「──ですが、」

 更に何事か告げようとした男の唇を人差し指で封じる。
 驚愕に瞬いた双眸が一瞬だけ暗い影を帯びた様を、薬売りは決して見逃しはしなかった。もっとも、そんな決定打などなくても、これは違うのだと薬売りの心は理解していたが。

「…その名を呼んで良いのは…"貴方"では、ない」

 それは、確かな拒絶。
 す、と身を離し、一歩後退する。すぐ背後には池があり、そのまま後退すれば間違いなく落ちてしまうが薬売りは構うことなく更に足を踏み出した。
 がくん、と微かに身を襲った衝撃。しかしそれは刹那で、次の瞬間に薬売りを包み込んだのはきつく身を抱き抱える褐色の腕。今は薬売りだけが認知することができる確かな実感を以て、これが、これこそが現実なのだと吐息を溢す。
 その瞬間、視界の光景は崩れ去った。
 花が急速に散り逝くように、夢が夜明けの光に溶け消えるように、幻は現実へと塗り潰されていく。
 そう全ては、桜が見せた夢幻。

「"お前"の、せい…ですよ、」
「…とんだ言い掛かりだな」
「いえ、いえ…言い掛かりでは、ありますまい…。お前が、私を幸福へ堕とす度に、その記憶は私を弱くする…。よもやこのような幻影に、一時なれど捕らわれるなどと…」
「……そう、だな。知らぬ方がお前は強く在れたのかもしれん。だが、」
「もう手遅れだ、もう私は、知ってしまったのですから…。だから、離れるな。私の傍から、私の中から」
「無論だ、願われるまでもない。離れるつもりも手離すつもりもない。一過性の戯れに、名を与えるほど俺は酔狂ではないからな」
「えぇ、そう…でしょうとも、」

 振り返り、その唇を掠め取る。
 両手を頬に添えて、吐息が交じるほどの距離からその気高い紅の眼差しを見据えた。
 苛烈にして繊細なる、この世にまたとない蘇芳の瞳。その身に宿る穢れない雄々しき魂の輝き。知ってしまった以上、どうして手離せれようか。

「私の名を、呼んで良いのは…この世に唯一人、お前だけです」
「当然だ。他の者に呼ばせなどしない。"芙桜"──その名を刻む心、それは俺のものだ」

 公言する所有欲は、牽制の意味も孕んだ。
 其処に在るモノ。未だ現実の中に存在し続ける夢幻の残骸。淡紅色の花を満開と咲かせ、風に散らし続ける八重桜を、蘇芳の眼差しは鋭く睨み付ける。

「貴女にも、貴女の見せる幻にも、その名を紡ぐこと…許されては、いないのですよ。…私の夢芝居は終わり、です。次は貴女の番だ──木花咲耶姫」

 カチン──と、獅子が歯を鳴らす。
 薬売りの青破璃もまた、季節外れの八重桜を見据えた。正確にはその根元に佇む女。
 淡紅色の髪に真紅の瞳、白装束を纏い、儚い微笑みを浮かべたその女。桜の化身と、人の情念が結び付き人の世へ生まれ落ちたモノノ怪──その"形"を、木花咲耶姫。

「貴女様の、"真"と"理"……お聞かせ願いたく候──」

 彼方、夢幻へ流れるは八重桜。
 此方、現に咲き誇るは白蓮桜花。
 ものみな剣に導かれ、花は今宵、美しく舞い踊る。散り逝くその刹那まで──





艶やかな花殻 〜芙桜〜
(現へ咲き、夢に散りて…されど殻から再び芽吹く、枯れざる一片)









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夢見てみた第二弾←
前回の対にする筈がまるで違うものになってしまった。
一枝と一枝では芸がないと気づき一枝と一片でセットという形に修正してみましたが、やっぱり微妙だな、うん。

掌に字を書くのって可愛いですよね。今回それが出来たから良しとしましょう←

今回のモノノ怪"木花咲耶姫"はご存知有名な桜の語源となった花の女神です。この方、名前の表記が色々とあってどれにするか地味に悩んだのですが、結局一般的な字で落ち着きました。

アヤカシと神様は同じようなもの。モノノ怪はアヤカシに人の情念が結び付いて生まれる。つまり神様がモノノ怪に転ずることもあるんだよな、ってことで書いてみました。あと夢幻を見せる力ってのは、桜の異称"夢見花"からです。文章がおかしかったり、色々と矛盾もありますがその辺はスルーしてやってください。すみません。





あきゅろす。
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