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艶やかな花殻〜珀梅〜


 梅雨時期などとうに明けた頃合いだというに、気紛れな夏の空は蒼を濃灰の雲の裏側に隠してしまい、何が悲しいのか大粒の涙を流している。
 朝から続く雨空はその勢い以外に目立った変化を見せることもなく、今が何刻であるか、そんな些細な事柄すら曖昧にさせた。
 このような天候の中で外を歩く人の姿は少なく、夜半が近づいていることも相俟ってか先程まではちらほらと窺えた色とりどりの傘達も形を潜めて久しい。
 随分と寂しくなってしまった通りを、何をするでもなくぼぅ、と眺めていた男は徐に自らの傍らへ佇む低葉木へ視線を向けた。
 青々とした葉を、今は降り注ぐ雫に打ち付けられて僅かに項垂れさせながらも佇まいは凛と、大地に根を張るその姿。
 見てくれは取るに足らない唯の木だ。一見しただけでは多くの者が何の木かも解らず、興味すら引かれることなく通り過ぎていくだろう、何の変哲もない。
 だが男はそれが何の木であるかを、不思議と一目で悟ることができた。
 同じ種はあっても一つとして同じ木はなく、間違いなくこの木を見るのは初めてだというのに、何故か理解が及ぶ。鮮烈な春の日の記憶を伴って──



『──貴方が咲いて、私が咲ける…お似合いでは、ありませんか…?』

『貴方は私を呼べる。私は貴方を呼べない…これでは、不公平、だ』

『だから、私は…あれ、を────』



 雨粒を伴った風が強く、男の白く長い髪を揺らした。
 精神体に過ぎない男の躯は、風に髪を煽られることはあっても、降り注ぐ水に濡れることはない。何とも都合の良い、便利であり不便でもある躯だ。
 実体を伴わないそれは決して死ぬことはなく、永遠という膨大な時の流れに身を置き続ける。モノノ怪が、人の世に生まれ続ける限り。
 咲けば散り逝くことは必然である、生き物とは逸脱した存在。
 それでも、あの日の記憶を疎むことはない。皮肉かと感じる情緒が芽生える間もなく、記憶は思い出と変わり、花の季節を終えた今も尚鮮烈に蘇る。
 疎むなどとんでもない。儚く、愛しい、大切な記憶だ。

「──物思いに、耽るのは構いませんが…」

 不意に、背後から聞こえた声に一瞬だけ瞠目する。
 記憶の中から飛び出したのかと錯覚するほどに聞き慣れて、けれど飽くことのない声。今は何処か咎めるような響きを孕んだそれに、ゆっくりと振り返ればやはり不満そうな色を秘めた青破璃の眼差しに射抜かれた。
 緋色を基調とした傘の下、淡い利休色の髪をしっとりと湿気に濡らしながら、極彩色を纏う麗人はゆっくり男との距離を詰めてくる。
 三歩分の距離を置いて止まるその姿を改めて視界に収め、漸く悟った。これは憤っているのではなく、拗ねているのだ、と。

「……待つのはあまり、好きでは…ありません」
「…大概、辛抱強い方ではなかったか?」
「いえ、いえ…。お前相手では、堪え性がないんです、よ…」

 昔から、ね──。
 口端を吊り上げた紅の為に艶やかな微笑を浮かべているように窺える口許は、実際には真一文に結ばれていることが多い。
 理を伴わない形だけのものならば幾らでも建前として貼り付けることができるだろうに、それをしないのを少なからず男のことを慕ってくれていることの表れ。自惚れではないのだと自負する程度には、男は彼の性質を心得ていた。
 さくり、と音を鳴らして歩みを再開した薬売りは、男の傍らまで寄り、そっと片手で木の幹に触れる。指先に紫紺を咲かせたたおやかな白い指が、感触を確かめるように上下に幹を撫でたかと思えば、得心がいった様子で視線を枝葉へ向けた。

「…梅の木、ですか」
「好きではなかったか?」

 問い掛ければ、一瞬だけ意表を突かれたように、無防備に瞬く青破璃の双眸。それは刹那の間に払拭され、瞳はまるで懐かしむかのように緩く細められる。
 幹に触れていた指が離れ、男の頬へと伸びた。白い指先が褐色の肌に触れた瞬間、ひやりと恐ろしく冷えた体温が、薬売りが外にいた時間を如実に示し、思わず眉根を顰める。
 一体どれ程待っていたのだろう。些細なことが不調となって現れる脆弱な人の躯で、何という無茶をするのか。──そう告げようとするのを予想したかのように、麗人はそっと、指先を男の唇へと移動させ、淡く笑みを浮かべる。

「…私が好きなのは…琥珀に白玉を一差した、この世に唯一の一枝。私を待たず散り逝く花に、興味は…ありません、よ」

 言うが早いか、男は薬売りの手から傘を奪い取り、空いた片腕でその細腰を抱き、自らの胸中へと引き寄せる。
 着物によって誤魔化されているが男性にしては華奢な躯は抵抗もなく褐色の腕中に収まり、それで初めから決められていたことのように薬売りは男の肩に頭を預けた。
 止むことのない雨はしとどと傘を打つが、それは最早雑音としても認識はされない。互いが認知するのは唯、互いの存在だけ。

「嗚呼…待つのは、俺の役目だからな」
「……いけず」

 言葉尻は不貞腐れているが、決して身を離そうとはしない姿に、知らず男も蒼の紅に彩られた唇に笑みを敷いた。
 散らぬ花を愛でるものはいないだろう。散り逝くからこそ花は美しいのだと、誰とも知らぬ先人が遺した言葉は男も肯定する。
 だが男は間違っても花ではない。愛でられる為に在るものでもなく。
 始まりの理は、唯、モノノ怪を斬る為。現在(いま)へと至る理は、彼と寄り添う為に。



『──私が"桜"なら、貴方はさしずめ…"梅"。貴方が咲いて、私が咲ける…お似合いでは、ありませんか…?』

『だから、私は…あれ、を──貴方、に。琥珀に白玉を一差す枝……"珀梅"、と』



 風に白が舞う、春の日。
 散り逝く花の欠片が吹雪のように視界を覆う中に、佇んだ美しき人は、そう言って微笑んだ。
 いつか、男が贈った翡翠と、一輪の桜を象った白玉をあしらった簪を淡い利休色の中へ飾り、儚く、されど艶やかに。
 遠き日。今は過ぎ去りし思い出の地。

 今は雨ざらしの夏。
 花は散り、追憶の中に残るかの場所より芽吹いた一枝一片だけが其処に在る。共に枯れ逝くその日まで──





艶やかな花殻 〜珀梅〜
(花は散りて、されど、その殻の中に尚枯れざる、モノ)









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夢見るお年頃らしいです。誰がとは言いませんが。
薬売りさんにとっては金色と白が剣さんを象徴する色、なのかな。剣さん的には白は薬売りさんを象徴するのでしょうが。

敢えて説明描写は大幅省略。





あきゅろす。
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