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空ろな心臓の所有者


 徐に、伸ばされた浅黒い褐色の手に、右手を絡め取られる。
 それよりも前に引き寄せて、自らの腕中に抱き込んだ薬売り自身への扱いはおざなりに、男の視線はじ、と真白の手の甲へ注がれ続けた。
 黒い強膜の中央に鎮座する蘇芳は、真正面から覗き込まれると夜闇の中から見つめられているような、不可思議な高揚に似た気持ちを覚えさせられる。
 ある意味、この真剣な眼差しを直視せずに済んだのは救いだったのか。些か勿体無い、とは思うの、だが。
 そんな下らないと卑下されそうな思考をぼんやりと廻らせていれば、何かを辿るような動きで右手の甲から掌、指先までを石榴の爪でなぞられ、意識を引き戻す。
 爪にだけ紫紺の花を咲かせた、自然の色ではない、造物的な白さを持つ手には普段と変わったところは見受けられない。
 何をそんなに気にしているのかと眉を潜めて、嗚呼、と思い至る。極最近のことだが、取るに足らない些末事と自らの中で完結させていただけに、悟るのが遅れてしまった。
 坂井家で現れた化猫との一件。その際に負った傷の中で、特に重傷だったのがモノノ怪を抑える結界を制御していた右手。
 多大な負荷を受け何本か血管が切れてしまったらしく、一時は大量の出血を伴ったが今ではその痕跡すら残ってはいない。
 既に人間と類似しているだけで、本質は逸脱している薬売りの肉体は、傷の回復が異常に早かった。怪我をすれば痛みを感じ、出血もするが、それだけである。時間を置けば跡形もなくなってしまうものを逐一気に留めていてはきりがない。
 とはいえ、確かに件の化猫には少々手こずってしまった。
 知識と経験、それだけで思い通りになる筈がないことは理解している。
 不運にも"生まれ直し"の直後で、新しい肉体に慣れていないことと、なまじ記憶は残っている分生まれた過信。要因はいくらでも考えられるが、つまりは油断していた、という点に限られる訳で。

「…心配、させちまいやした、かね?」
「無茶をし過ぎだ」

 憮然とした表情で一言。
 簡潔に述べる言葉の中に、男の言わんとすることは包み隠されることなく窺えた。
 視線だけを持ち上げて盗み見る男の表情は一件常と変わらぬ凪を保っているが、付き合いの長い薬売りには解る。どうやら少々機嫌が悪いらしい。
 咄嗟に謝罪の言葉を告げようとして、結局薬売りは口を閉ざした。彼が欲しているのは言葉による謝罪ではなく、次へ繋がる反省と、何より理由。
 もっとも、何故かと問われたところで明確な答えが出せる訳ではないのだけれど。
 改めて先日の一件を思い返し、疑問に思う。何故、あれほどまで必死に化猫と対峙していたのだろうか。
 モノノ怪にとっての"理"を知らぬままに、"退魔の剣"を解き放とうとしたのは、何故だ──?

「……あの男のこと、妙に気に掛けていたようだが…?」
「…小田島様の、ことですかい?」

 確認の問い掛けに対し、男は沈黙を返すのみ。真一文に結ばれた蒼の紅が彩る唇が、否定を返さぬことを即ち肯定と受け取ることにし、それを前提に思考を廻らせた。
 当初から怪しい、胡散臭い、何か企んでいるに違いない、と執拗に薬売りを警戒していた侍。その姿を脳裏に思い浮かべてみる。
 頑なに薬売りを信用しようとはせず、行動を起こす度に横槍を入れては時に邪魔をしたり、中々直情的な人間として印象は強い。
 その癖、最後の最後には矜事などかなぐり捨てて薬売りへ必死に助けを乞うてみせたりと、解りやすいようでいて時に不明瞭な、人間らしい人間で──

「……、あぁ、そう…かも、しれませんね」
「………」

 緩く、肯定するような曖昧な呟きを、男はやはり無言の中で聞いていた。薬売りも別段、相槌を求めた訳ではないので、気に留めずにおく。
 件の侍を、特別気に掛けていたつもりはなかった。唯、過去幾多と薬売りの奇抜な風貌に警戒を抱く者はいたが、あれほどの強い敵愾心を向けられたことは珍しくて、悪戯心に少し突ついてみれば何とも面白い反応が逐一返ってきて──純粋に、面白い人間だと思う。だが、それだけだ。
 そんな人間の、あまりの必死さに応えてやらねばと、気紛れを起こしてのあの状況であったに過ぎない。
 結論を言ってしまえば、それなりに彼のことを気に入ってはいたのだろう。あくまで、出逢い別れることを前提とした刹那的な関係の範囲内、であるが。
 そう、疑問に対する解答を導き出し一人納得した瞬間、背後から胸へと腕を回される形で抱き締められる。その力は少し遠慮を忘れており、胸部を圧迫されていることも相俟って僅かに呼吸を妨げられた。
 眉根を寄せて、要因である男を睨み上げれば、常よりも暗い色を称えた蘇芳と鉢合い、思わず息を呑む。

「……何て眼を、してるんですかい。心配しなくとも…青顎のお侍様は、俺の好みじゃ…ありませんぜ?」
「…解っている。そんなことはどうでもいい。問題は…お前が自身を顧みないことだ」
「……」
「お前は、優しすぎる。何故自らを蔑ろにして、人を助けようとする。…気紛れなどという言い訳は、次はないという前提があって成り立つものだ。通用すると思うな」

 今宵の彼は妙に雄弁だ。
 普段は寡黙だが、時折こういう時がある。それは大抵機嫌が著しく損なわれている時だ。
 男は、上機嫌ならば態度で示す。言葉を用いるのはその逆。それを裏付けるように、向けられる言葉には遠慮も容赦もない。
 そして、否定が出来ない的確な内容だ。
 次また同じような状況になれば、薬売りはやはり居合わせた人間を無下にすることはないだろう。結果的には高い確率で助けてしまう──はたしてそれが優しさなのかは、解らないが。
 別に自身を蔑ろにしているつもりはないのだ。しかし、最も薬売りに近い場所で状況を見ている男がそう言うのなら、そうなのだろう。
 自分でもそれなりに自覚はしている。薬売りは自らの肉体に受ける痛みには鈍感だ。
 流れ出た血とて時間を置けば補える。治療不可能域の怪我を負おうと、今まで幾度とあったように肉体を"生まれ直し"てしまえば良いだけの話。そう割り切ってしまっていた、当たり前のことのように──。
 答えぬ薬売りに焦れたのか、男は徐に、薬売りの肩口へ顔を埋めた。さらりと素肌を擽った雪白の、絹糸のように柔らかな髪の毛の感触に一瞬くすぐったげに双眸を細める。

「お前は、俺だけでは…駄目なのか?」
「…、…何を、」

 予想外の問い掛けに思わず瞠目する。
 反射的に、相手の顔を見ようと身を捩るが、逆に強く腕の中に躯を閉じ込められてしまい、表情を見ることは叶わなかった。
 見るな、ということなのだろう。男がこうも頑なな態度をとるのは珍しいので、素直に従うことにした。
 薬売りを抱く力こそ強いが、回された腕は何処か頼りない。振りほどこうと思えば恐らくあっさりと離れてしまうだろう。だからこそ、今ここで彼を拒絶すべきではないと知れた。

「俺には、お前だけだ。望めば俺の全てはお前のもの、お前があってこその俺だ。だけどお前は、全てを俺に捧げてくれぬのだな…」
「……」

 懇願するような声音でありながら、自嘲するような物言い。
 薬売りは今度こそ、完全に返すべき言葉を失った。男の言う通り、彼がどんなに望んだとしても肉体の所有権だけは、薬売りは譲れない。
 傷付くことを厭う気持ちは、解っているつもりだ──現に、立場が逆であったから薬売りも男と同じことを言う確信がある。それでも、心を裏切って制する必要があるならば、薬売りは決して男の望みを受け入れることはしない。
 薬売りは所詮、"退魔の剣"が自らの使命を果たす為に創り出した傀儡。人たることを望まれたが故に──また"退魔の剣"自身が"道具"たらんとするが故に──意思の自由を許されているが、それは如何な犠牲を払ってもモノノ怪の"形""真""理"を示すという与えられた役割を果たすことを前提にした上でのこと。
 男に全てを捧げ、彼の所有物となることは傀儡人として許された生を失うことと同義。男と共に生きる為には、この一線を越える訳にはいかない、何があっても。
 共に生きられぬなら共に死ぬ。その選択を躊躇わぬ程に、薬売りは男に執着している。離れるなど以ての外。
 だが、"退魔の剣"によって"死"を奪われた男と心中することは叶わない。躯の所有権だけは、彼に捧げる訳にはいかなかった。
 それを、男とて理屈では理解している筈だ。それでも、理屈で心を御せないのは、彼が人間であるからこそか。

「…我儘を、言わないで下さいよ。あんたが好きで、あんたとずっと連れ添っていたいから、あんたにこの心臓の所有権まで、くれてやる訳には…いかねぇんで──、!」

 些か突き放すような物言いになったことを後悔する間もなく、顎を指で引かれ唇を塞がれる。
 至近距離で交わる白の中の青破璃と、黒の中の蘇芳。応えるように薄く開いた唇から侵入する紫の舌先を受け入れながら、薬売りは双眸を伏せた。
 自らが決めたことであり、割り切ったことだ、この先もきっと後悔はしないだろう。
 手離すことができないのなら、他を諦めなければならない。二兎を追い一兎も獲られぬなど、後悔では済まされないのだから。
 嗚呼結局、一番我儘なのは他ならぬ己自身ではないか。自嘲する言葉は声にはならず、夜の虚空へ露散し、消えた──





空ろな心臓の所有者
(心ならば望まれるべくもなく。だから入れ物だけは私の手に)









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剣さんが好きでも、全てを明け渡すことはできません。所有権をあげれば、傷付くことも死ぬことも許してはくれないでしょう、=モノノ怪探しはおろか旅すら出来なくなりかねない。
そもそも薬売りさんは肉体=唯の器で大事なのは心、という人ですから、剣さんの気持ちは理解できても、以後もあまり重きを置いてはいません。

生まれ直し直後で色々と情緒やら何やらが未熟な薬売りさんを狙った、つもり、です←





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