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片道810円
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 俺は今26歳で独身で、生まれ育ったこの町の安アパートの狭い部屋に一人で住んでいる。

 職業は理容師だ。地元の小さな床屋で、初老のおじさん店長吉川さんと二人で働いている。職場までは俺の住むアパートから徒歩3分。たまに買い物に出掛ける以外は、ほとんどこの3分間の距離を行き来するだけの毎日だ。大人になって、同級生達は皆この田舎町を出ていってしまったから、休みの日に遊ぶ友達も居ない。でも俺は、今の生活に何の不満も無い。だって俺は理容師の仕事が好きだから。職場に行けばお客さん達がいつも俺の話し相手になってくれるから、少しも寂しくないんだ。店の常連さんはおじさんばっかりだけど。それから看板猫の幸吉も居て、彼も気が向いた時は俺に構ってくれる。

 でも、たまに少しだけ不安になる時がある。俺が働く店にはほとんど女の人が来ないし、出会いが全く無いんだ。だから、このままじゃ俺は一生結婚出来ないんじゃないかと。そして少し考えて、まぁそれはそれで良いかとも思う。この平和な毎日が死ぬまで続くなら、まぁまぁ幸せな気もするんだ。

 そんなある日、久々に母さんが俺の住むアパートを訪ねてきた。3月の事だ。この日は平日だけど、俺は店の定休日で休みだった。

「あのね…」

 母さんは何だか言い出しづらそうだった。

「私達、悠平さんの仕事の都合で九州に引っ越す事になったんだけど」

「へぇ、そうなんだ。遠いな」

「うん。それでね、あの…」

「何だよ」

「京くんがどうしても引っ越したくないって言うの。だから京くんが高校生の間だけで良いから、大樹の所で預かって貰えないかしら」

「この春から二年生だっけ?」

「そうよ。だめ?私達も毎月幾らかお金は振り込むから」

「いや俺は全然構わないけど、京助がさ…俺の部屋狭いし、それにあいつ、俺の事あんま好きじゃないんじゃないかな」

 俺は19歳から20歳の時に一度だけこの町を離れた事がある。19の時に母さんが再婚して、新しい家族と違う町で暮らす事になったからだ。ここから車で一時間弱の所にある都市で、その時俺は専門学校に通ってたんだけど、その学校もその町にあったから通いやすくてちょうど良かった。学校を卒業して資格を取ったら吉川さんの店で雇ってもらえる事になって、またこの町に戻ってきたんだ。

 一年間だけだけど、新しい家族と一緒に暮らした日々はそれなりに楽しかった。それまではずっとこの町のばあちゃんの家に、ばあちゃんと母さんと俺の三人で住んでいた。

 母さんは俺が物心もつかないぐらい小さい頃に離婚した。そして、母さんの再婚相手の悠平さんもバツイチで連れ子が居た。それが京助だ。

 悠平さんは本当に優しくて、母さんの事をちゃんと大事にしてくれる凄くいい人だ。でも京助は、ちょっと苦手だ。初めて会った時、京助は小学生だった。凄く綺麗な子だと思って、それが男の子だと知ってもっと驚いた。人見知りをする子で、全然喋ってくれないし目も合わせてくれなかったから、初めて弟が出来たと思って喜んでた俺は何だか凄く悲しくなった。一年間一緒に暮らしても、全然俺に慣れてくれなかった。

 俺はこの町に戻ってきてからも、毎年お盆と正月には家族に会いに悠平さんの家に帰っている。母さんはずっと変わらない。悠平さんは俺にもいつも優しくしてくれて、京助はいつも俺と距離をとりたがる。でも、京助が中学生の時に初めて兄さんと呼んでくれた時は涙が出る程嬉しかった。京助は会う度大きくなってて、中三の時にはとっくに俺の身長を抜いていた。会わない間に声も低くなってたし。最後に会ったのは今年の正月で、今でも相変わらず女の人みたいな綺麗な顔をしてるけど男らしい色気も持ってて、こいつは相当学校でモテてるなと思ったりもした。

「京くんはシャイなだけよ。嫌いだったら自分から大樹のとこに行くなんて言わないでしょ」

「は?京助が言ったのか?」

 俺は意外すぎて驚いた。

「そりゃよっぽど転校したくなかったんだな。友達とか彼女と離れたくないだろうし」

「まぁそうかもね。とにかく、大樹が良いなら今度悠平さんと京くんと一緒にまた来るから」

 数日後、悠平さんと母さんと、必要最低限の荷物を持った京助が俺の部屋に来た。

 悠平さんは何度も俺にすまないと言って頭を下げた。べつにそんな事しなくても、京助は俺の弟なんだから遠慮する事ないのに。

 最後に悠平さんは俺に京助を頼むと言って、京助には大樹くんに迷惑かけるなよと言った。そして悠平さんと母さんは、京助をここに残して帰っていった。

 部屋に京助と二人きりになった。京助と一瞬目が合ってすぐにそらされた。いつもの事だから気にしない。それに、やっと兄らしい事が出来るかもしれない。これからは俺が京助の保護者なんだ。

「奥の部屋使えよ。それ以外も自分の家だと思って自由に使って良いからな」

「はい。すいません、なんか…」

 何故謝る。しかも敬語だし。前からずっとそうだけど、ちょっと傷付くんだよな。兄として認められてないような気がして。でもこっちからグイグイいったらもっと嫌われそうだし。母さんには慣れてるっぽいのに。そりゃ母さんとはずっと一緒に居て、俺とは最初の一年間以外は一年に二回ぐらいしか会ってないから仕方無いかもしれないけど…

「あの…」

「ん?」

「トイレ借りても良いですか?」

「良いよ。ていうかそれも聞かなくていいから。トイレそこな」

「はい。すいません」

 ………。

 こうして、京助との同居生活が始まった。

 4月に入って京助の春休みが終わった。京助は毎日始発の汽車に乗って学校に通うから、俺もそれに合わせて早起きして、弁当と朝御飯を作ってやらなきゃいけない。

 晩御飯の献立も、栄養のバランスとかちゃんと考えるようになった。洗濯物の量も増えた。掃除も前よりマメにするようになった。大変かと思いきや、これが意外に楽しい。長い間一人で暮らしてきて、俺は考えてみれば誰かのために何かをしてやった事なんて無かった気がする。自分の為にしか生きてなかったんだ。俺は幸せだと思いながらも、ずっと何かが足りない気がしてた。

 京助は相変わらず素っ気ないけど、それでも良いんだ。俺はどんなに相手にされなくても、兄として弟に全力で愛情を注ぐ。弟が出来て俺がずっとやりたかった事が、今になってやっと出来ている。というか、兄と言うよりはやってる事は母親みたいだけど。ん、じゃあ母性愛?俺の中にこんなにも母性本能が眠っていただなんて…!!

 見返りなんていらない。ただ京助の為に俺が出来る事は何でもしてやりたい。

 そして今日も、学校へ行く京助に弁当を渡して見送った後、俺は自分の職場へと向かった。

 職場に着くと店長の吉川さんが、おはよう大樹くんと言って優しく笑った。俺は小さい頃からずっとこの店で髪を切ってもらっていて、その時からずっと吉川さんは俺の事を下の名前で呼んでいる。俺が小学生の時、吉川さんが俺の髪を切りながら、大樹くんも大きくなったらこの店で働かないかい?と言った。吉川さんは冗談で言ったのかもしれないけど、俺はその言葉を真に受けて、それも良いかもしれないと思ったんだ。俺は昔からこの店が好きだったし、吉川さんに話を聞いてもらうのも好きだった。俺には父親が居なかったから、俺は勝手に吉川さんの事を父親代わりみたいに思っていたのかもしれない。

 店の掃除をしていると、猫の幸吉が後ろ足で首を掻いて首輪の鈴を鳴らした。4月と言ってもまだ雪が降る日もあるぐらい寒い。幸吉はさっきからずっとストーブの前から動こうとしない。

「幸吉さん、ちょっとそこ退いてくださいよぅ。掃除の邪魔ですよぅ」

 幸吉は薄い茶色の毛をした、ちょっと目付きの悪い猫だ。いつの間にかこの店に居たけど元々は野良で、吉川さんが餌をやってるうちにここに居着いたらしい。人にとっても猫にとっても、ここは居心地が良いんだ。

 仕事をしつつも、夕方が近づいてくると晩御飯の事で頭がいっぱいになる。

 今日は何にしよう。昨日は魚だったから肉の方が良いよな。冷凍庫に豚肉があったな。カレーにしようかな。京助は大きい具がごろごろ入ったちょっと辛めのが好きだったはずだ。

 夕方になって、俺は仕事を終えてアパートに帰った。御飯を作って風呂を沸かして、京助の帰りを待つ。


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あきゅろす。
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