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Libreria.
メアリ・アンの行方(仏英
 今日の買出しメモ。(バター、ブレッド、シュガー、ミルクその他必要雑貨)
 コートのポケットから出したメモは、手袋ではうまく掴めずにぐしゃりと皴を寄せた。
 別に、メモを見るまでもない。冷蔵庫に足りないものを買いに来たわけじゃなかった。ただ、馬鹿みたいに甘いフレンチトーストが食べたかった。作ろうと思ったら、暫く放置していたキッチンには足りないものが多すぎただけの話だ。
 耳朶を切りつけるように抜けていく北風の中、アーサーはゆっくりと近場のマーケットへ歩いていた。どうせなら、奮発して上質な砂糖でも買おうかと考えながら。

「お前さ、どこ行ってたの。」
 一週間前、暖められた部屋でケトルのお湯が沸くのを待ちながら本を読んでいる所に現れたのは髭野郎。千年の喧嘩相手である海峡向こうの隣人だった。
「チャイムもノックも聞いてねぇぞ。」
「じゃあ玄関に厳重に鍵かける癖をつけろよ。」
 雪で濡れたコートを脱いで当然のようにそのままキッチンへ向かった男に苛つきつつ、アーサーはだらしなく腰掛けたソファから身を起こすでもなく視線は紙の上を追っていた。
「不法侵入の言い訳にしちゃよく出来てる。」
「そりゃどうも。そうじゃなくて、坊ちゃん。俺の最初に言ったこと聞こえてた?」
 なにやらガサガサ、キィ、カシャンと音をさせながら髭野郎フランシスは声を少し荒げた。勝手に食器棚を開けられても、そんな所に重要書類なんぞ入っていないので放っておく。
「言ってる意味が分からない。」
 そろそろ沸いただろうかとケトルの様子が気になって、アーサーは本を閉じるとキッチンのフランシスに向き直った。
「・・・会議のあと、どこフラついてたのって聞いてるの。」
 つい一昨日の会議を思い出す。フランスとイギリスの二国間における外交案について色々とやりあった。それはもう穏便に。会議自体は予定より長引いたが、どうと言うこともないいつもの通りだった。
「残業してたに決まってるだろう。俺は天下のワーカーホリックだぞ。」
 嘘はない。会議の後は結局いつでも残業だ。それがアーサーにとっての心の平穏である。
「うちの議員とあれこれするのも残業なの。」
「当たり前だ、馬鹿。」
 フランシスが少しの非難を籠めて問うても、アーサーはご機嫌伺いなんかしてやらない。あれもこれもそれもどれも全部仕事だ仕事。どうせフランシスだって口ではそう言っても、瞳には傷ついた色一つ浮かべてやしないのだ。
「そっか。仕事か。じゃあ、いいや。浮気だったらどうしようかと思った。」
 紅茶の準備を始めるアーサーに機嫌良く頷いたフランシスは、握っていたナイフを彼が持ってきたケーキへと滑らせた。
「どうするつもりだったんだ。」なんて問い返すことはしない。その行為の愚かさをアーサーは充分理解していた。
 口は災いの元。確かに、そうだろう。わかっている。二枚舌外交を積み重ねてきたアーサーは分かっていたはずなのに、一度だけフランシスの抗議を心の底から笑い飛ばして問い返した事がある。その時は後からとにかく体中が痛かったし、仕事は休まなきゃいけなかったし、居間のカーペットもカーテンもテーブルクロスもソファも全てを買い換える羽目になった。流石にあれはもう御免だった。
「あいつは理想のフランス人だぜ。」
 変わりに冗談を言ってやりすごす。フランシスは「どこが?」と言いながら皿をテーブルへ運んだ。
「先ず髭が無い。口下手。ついでにネクタイの趣味が悪い。あと確実に料理は出来ない。」
 アーサーも紅茶をテーブルに運びながら、笑って言った。
「前に他の女にも同じようなこと言ってなかった?」
 フランシスも笑って、エスコート宜しくアーサーの椅子を引いた。アーサーは当然の如く腰掛ける。
「つまりお前は理想的じゃないってことだ。」
「生粋のフランス人に向かってなんてことを!」
 フランシスも席に着くのを見てからカップに紅茶を注ぐ。ふわりと花の香りが広がった。
「恋人としては理想的すぎる。」
 香り高い紅茶に満足して口を滑らせてやれば、フランシスは少しだけ頬を染めて「そりゃどうも。」と返した。口下手な気の利かないフランス人を見て、アーサーは一層満足した。
 あれから一週間。アーサーはとにかく仕事に追われていた。フランス以外にも最近は問題が多い。自国内における外交とか、不祥事とか、金銭トラブルとか、最悪のタイミングで仕事が重なって波となって押し寄せた結果だ。家に帰るのは寝る為。食事は全て職場でのデリバリー。上司もピリピリしていて、アーサーは職場の書斎に三日は缶詰状態だったんじゃないだろうか。
 国と言っても国政も情勢も動かせはしない。出来ることなど限られている。ようはただの国家公務員なので、忙しくても休みは欲しい。というか、多分ワガママを言えば在宅の仕事だけ廻してもらって案外のんびりした生活を送れるかもしれない。そんな選択肢は見なかったことにするが。
 怒涛の一週間を抜け、一段落した仕事に見切りをつけて二日間の休暇をとった。夕方に帰宅し、部屋を暖めていたらそのままソファで寝てしまっていた。目が覚めて凝った背中に「やってしまった。」と思いながら、緩めもしていなかったネクタイを引き抜く。すっかり夜が訪れているようで、暖房一つでは部屋は少し寒かった。
 窓の外の星を見て、そういえば腹が減ったと思いつく。がっつりとカロリーの高いものを食べたい気もするが、沢山食べられる気はしなかった。
 敵等に口に放り込んで温まれるもの。久々にゆっくり煎れた紅茶に合うもの。なんだか食事よりおやつが欲しい気になってきて、なんとなくフレンチトースト、しかも牛乳と砂糖たっぷりのふわふわ甘いやつが食べたくなった。このネーミング爆発しろ。
 そしてやはり適切な材料は見当たらない。明日は一日寝坊してゆっくりしたいが、ブランチに出来るようなものもない。この時間なら店はまだ開いているだろうと時計を確認して、アーサーは外へ出た。
 外気に触れて眠気は一気に吹き飛ぶ。街灯に照らされた街路樹は酷く寒そうだった。タクシーを拾う距離でもない。帰りに荷物が多くなるようならそうしようと歩を進める。一応買い忘れがあると面倒だと思い、メモをしてみたがあまり意味はない。メモの内容よりもメモをとったという行動が記憶に刻まれただけだ。忘れるよりは、ずっとマシだろう。
 夜になれば昼間以上に寒い。耳当てもしてくればよかった。砂糖はやっぱりいつものメーカーを買おう。その代わり新しい茶葉を買って、紅茶の為の砂糖は上等のものにしよう。そういえば園芸用の軍手も新調しなければ。つらつらと考えながら、人ごみを抜けていく。ああ、一人酒もいいな。相手が欲しけりゃそういう店に顔出せばいい。パブの明かりを見ながら思うも、それも面倒だと諦めた。
 結局色々考えても今日はとにかく面倒だったので、必要なものだけ買って帰りも歩いた。玄関で鍵を差込み、あれ、と首を傾げる。右に廻せばカチリと鳴って開錠するはずだ。左はその逆。でももう一度右に廻してみても、鍵穴は音も立てずにすんなりと廻って肩透かしを食らった。閉め忘れたなんてそんな馬鹿な。
 なんの警戒もなく扉を開け、漂ってきた甘くまろやかな匂いに思わず舌打ちを漏らす。
「ボンソワール!坊ちゃん。早くコート脱いで。もう焼けるから。」
 廊下を進みリビングへ入れば、髭野郎がエプロン姿で投げキッスをしてきた。正確にその弾道を見極めて避けながら買い物してきた袋をキッチンへ置く。コンロにはフライパン。そして狐色のフレンチトースト。
「連絡なんてもらってねぇぞ。」
「じゃあフランス人に合鍵渡すのやめな。」
 鼻歌を歌いながら皿を準備する男を、久々に殺してやりたいと思った。一体何の為に寒い中買い物をしてきたんだか分からない。来ると知っていれば一歩もソファを動かなかったものを。
「不法侵入の言い訳にしちゃ最低だ。お前は最低のメアリ・アンだ。」
「端から居もしない、ましてや行方をくらますメアリ・アンなんてのはお前にお似合いだよアーサー。」
 恋人であるフランシスはさも心外だという顔をして、アーサーの手袋を取り去った。

メアリ・アンの行方

 なんの変哲も無い、不思議の国へようこそ!

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