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Libreria.
彼の名前を知らない。(普英
「俺を匿えギルベルト。」
「お断りだぜアーサー。」
 書斎の扉を蹴破って(何せ鍵をかけられていたので)用件を伝えたら、書類から視線も上げずに素気無い返事。
「・・・お、お前に俺を匿わせてやってもいいんだからな!バーティ!」
「キッチン右手の棚に美味いトルテと最高の茶葉があるぜ、アート。」
 そこで初めて、ギルベルトは笑いながらアーサーを見やった。普段は乗っかっていないはずの眼鏡が、その端正な顔に居座っている。
 フレームの無いガラスの向こうで、プルシアンブルーが光を反射して宝石みたいだと思った。それはただの勘違いなのだけれど。ギルベルトの瞳は、この世の何より赤いダイアの原石だ。
「荷物は隣の客室に置いとけよ。部屋の鍵は机の引き出しに入ってるから好きにしろ。あとちょっとだから、めちゃくちゃ美味い紅茶を煎れといてくれたら、家出の経緯でも聞いてやる。」
 家主の了解を得て、アーサーは「10分以内。」とだけ言い置くと、足元に置いていたトランクを持って、扉を閉めた。確実にノブの金具は壊れてしまったようだった。少し気分がいい。どうせ、ギルベルトはこんなことでアーサーを怒ったりはしない。
 勝手知ったる足取りで廊下を進み、書斎から少し先の部屋へ入る。掃除の行き届いた、簡素な部屋。ベッドとサイドテーブルと机、そして小さなクローゼットがある。どれも落ち着いたオーク材の、シンプルな作りだ。アーサーは着ていたコートをクローゼットに終うと、扉の正面にある窓を開けた。少し冷たい風が入り込んでくる。
 ベッドの上に掛けられていたカバーを外し、椅子の背もたれにぞんざいに引っ掛けた。トランクはベッドの横に放置して、机の引き出しからこの部屋の鍵を受け取ると一階のキッチンへと向かう。鍵は、閉めたりしない。
 言われたように棚の中からトルテと茶葉を出し、その隣の食器棚からポットやカップやソーサーといったティータイムに必要な食器を出していく。勿論、ティーコゼーだって揃っている。英国式のティータイムを楽しむために、アーサーが一揃いをこの家に送りつけたのだから当たり前だ。
 キッチンで湯を沸かし、準備をする。今日のトルテはカラメル色が美しいドボシュ・トルテだ。まるでドレスを纏う貴婦人のごとく、美しく何層にも重ねられた生地を見て、これはあの音楽家の差し入れなのだと一人納得した。
 この家ではギルベルトも、そしてルートヴィヒだって菓子作りをするが、親戚の音楽家が作り上げる菓子の美しさは芸術品だった。シンプルなトルテも、何故か彼が作ると背筋を正して顔を上げ、優美な微笑を称えて皿に乗っている気がする。あくまで気がするだけの話だが。そして当然のように美味しい。
 カップを温めて茶葉が丁度良く蒸らされた頃。少しの軋みを伴って音を立てながら、ギルベルトが階段を下りてきた。
「バーティ、ミルクが無い。」
「明日買いに行こうぜ。今日は諦めろ。」
 ソファに座って、ギルベルトはトルテを切り分ける。慣れた所作で綺麗に二等辺三角を皿に載せ、アーサーと自分の前にフォークを添えて並べた。
「今日ルートは。」
「仕事でフェリちゃんとこに出張中だ。明後日には帰ると思う。」
 きちんと二人分の紅茶を最後の一滴までカップに落として、アーサーは「ふーん。」と頷いた。少しだけ、気持ちが湯気と共に上向く。先程のドアノブと相俟って実に機嫌が良くなった。
「てっきりルッツの留守を狙ってきたんだと思ってたぜ。」
「あいつのスケジュールなんか知る訳ねぇし。お前も別に教えなかっただろ。」
「・・・教えてたら、わざと会いに来てくれたのかよ。」
「・・・。」
 香りを楽しんで、紅茶を口に含む。ギルベルトの挑発になど、乗ってやるものかと思いながら喉を通る熱さに肩の力を抜いた。
「で、連絡も無しに匿えとは穏やかじゃねぇな。事と次第によっちゃ、ティータイム終わったら出て行けよ、アート。」
 トルテにフォークを通して口に運びながら、ギルベルトはまたも素気無くアーサーに言った。視線は、重ねられた貴婦人のチョコレートドレスへ注がれている。
「・・・兄さんと喧嘩した。」
「久々に聞いたぜお前の口からその単語。」
 ギルベルトは、ふはっと息をついて笑った。アーサーは、苦々しい気持ちで眉を顰める。喧嘩というからには、本気だ。アーサーの兄弟喧嘩は何時だって命懸けなのだ。
「フランは?」
「自分に都合のいい条件を付けて、あっさり差し出すに決まってる。」
 海峡を越えた隣人は、何時だってアーサーの味方にはなり得ない。すぐバレてしまうのも嫌だった。それなりに構われていると思うこともあるが、時と場合を選ぶ。かなり。ついでに自分のプライドも折れてくれない。
「いっそ虚を突いてアントンとか。」
「・・・お前じゃ駄目なのかよ。」
 やはり口元を緩めながら二切れ目のトルテを頬張るギルベルトの言い草に、アーサーは苛々する。同時に、上向いたはずの気持ちは一気に急降下だ。
 アントーニョは、絶対に嫌な顔をして互いに言い合いの応酬になるだろう。面倒見はいいので、なんだかんだと追い返すようなことはしないだろうが、居心地は最悪だと言い切れる。ついでにここでも己のプライドはへし折れない。
 ギルベルトは、お願いすれば聞いてくれる。内容が彼と彼の弟にとって有害なものであれば即効で切り捨てられるが。それはもう、後腐れなど遺す暇さえ与えないほどに。アーサーは、そういうギルベルトに甘えている自覚があった。
「駄目だったらもう鍵取り上げてるぜ。紅茶のお代わりくれよアート。」
 そして二人で居る時には、愛称が大事だと彼は言った。アーサーとしてはこの上なく恥ずかしかったので、「ギルベルト」ではなく「ギルバート」の愛称で呼んでやったのだが。すごく喜ばれてしまったので恥ずかしいやらムカツクやらで、ずっとそう呼んでいる。
「い、いじわる言うな馬鹿ぁ!自分で煎れろ!」
 素直じゃない自分の態度を、甘やかすには丁度いいと言って受け入れているこの男は変わっている。変わっている男に、アーサーは甘えることを止められない。
「アートが煎れた方が美味いに決まってるだろ。お前こそ意地悪言うんじゃねぇよ。」
 空のカップを差し出され、アーサーは文句を言いながらも二杯目を用意してやる。ギルベルトの優しく細められた瞳が、琥珀の中に揺れている。
 紅に滲む紺青に、アーサーは心から泣き出したい気持ちに襲われた。
「なあ、ギル。ギルベルト。」
「・・・。」
 満たされた陶磁器の中に、冷たく深い青が、滲んで、揺れる。
「お前、誰、なんだ。」
 小さい子供でもあるまいし。胸の内で自嘲しながら、アーサーは一言ずつ慎重に言葉を紡いだ。
「フランシスの顔が思い出せないんだ。アントーニョの憎たらしい声も、アルフレッドの掌の感触も、ヴァルガス兄弟の歌声も、ローデリヒの口癖も、ルートヴィヒの字も思い出せない。お前だけは、嘘吐かないって、思ってたのに、お前の笑い方も思い出せないんだ。」
 全部が自分の中にあるはずなのに、全部のピースが不揃いに欠けていた。どうしてなんだと問えば、ギルベルトの視線がアーサーを捕らえた。
「先に嘘をついたのは、アーサー。お前だ。」
 静かに優しく投げかけられた言葉に、世界の全てが温度を無くして崩れ落ちていく。指先に触れていたカップも、ポケットに入っている鍵も、全部全部全部。
 ギルベルトは笑う。あの独特の笑い方は?太陽の光にも月の灯りにも透けるあの赤は?全てのピースが嵌っているはずのこの男は、全てが間違っていた。
「なあ、アーサー。俺はここには居ないって知ってるだろ。」
 冷たい部屋に、愛した彼の声だけが温かい。彼以外、誰も居ない世界は優しすぎた。
「お前が笑えるなら、別に構わないけどよ。何度でも、どんな理由で家出してきても、俺はここに居るけど、お前を迎えには行けないぜ、アーサー。」
 涙が溢れ出した。何時まで経っても、笑えない。優しい嘘を積み重ねるほどに、アーサーの中で何かが欠けていく。きっと最後に喪われるのは己の形をした何かだ。
 とめどなく溢れる涙に霞む視界の向こうで、ギルベルトが笑う。嬉しそうに、見慣れたがさつな笑い方でアーサーの涙を拭おうとしない彼は、赤い瞳を瞬かせていた。



「やっと来やがった。」
「あと一回でも死に掛けたら、俺は夢で自殺してやる。」
 鼻をすすり上げながらひとしきり罵詈雑言を吐いたアーサーを、ギルベルトは「不細工!」と言いながらあの独特の笑い方で指差した。優しさの欠片も見当たらない仕草で、乱暴に自分の袖でアーサーの眦を拭う。
「俺様が本気出してやったんだから笑えよ、アーサー。」
 止まらないアーサーの涙に、ついには困ったように赤い瞳を瞬かせて、ギルベルトは鼻先にキスを送る。アーサーはそれに頭突きで応えてやった。
 アーサーはどうやら一月は眠っていたと知った。自宅で寝ていただけだが、兄には随分と手痛い厭味を言われた。何せ職務放棄だ。そりゃ放棄したくもなる。誰がなんと言おうと、あれは現実にあったはずの幸せすぎる夢だったのだから。
 海峡の向こう、電話口で隣人は自分の失態を笑い飛ばしてから、一言「良かった。」と漏らしていた。今度髭を毟りに行くと約束した。アントーニョにも散々からかわれ、何故かトマトを貰う約束をした。アルフレッドには一発殴らせろと言われ、ヴァルガス兄弟にはいつも以上に泣かれ、ローデリヒには「このお馬鹿さんが!」と怒鳴られた。
 ルートヴィヒは、アーサーを見て何か色々と言いたいことが有りそうだったが、ただ一言「待っていた。」と言って家の扉を開けてくれた。ギルベルトが意識を喪って見舞ってから、随分と長く経っていた。
 久々に訪れた部屋で、当たり前のようにコーヒーを啜っていた男は「やっと来やがった。」と笑っていた。

 キッチンの戸棚に紅茶は入っていなかった。


彼の名前を知らない。

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