焼くだけで済むよう仕込んでおいた昼飯はニューゲートが準備してくれていた。さすがにこの臭いが髪についたまま食事を取る気にもなれず、俺は二人に先に食べ始めてもらうよう言ってから洗面所へと向かう。ついでなのでサッチも風呂に入れてしまうことにした。 おんぶ紐の中でじたばた体を動かすサッチが、たまたま手の届く範囲にあった俺の髪を掴む。 「んぶー」 「こ、こらサッチ!髪を口に入れるな、ベトベトになる!い、痛ててて引っ張るな!」 元気がいいのは良いことだけど、もう少しどうにかならないかなあ……。俺が服を脱いでいる間にもサッチは自由にハイハイしまくり、一人で勝手に棚に激突し泣き始めた。なんかもうね、ツッコミ待ちみたいだよね、これ。
「ナマエー、タオル持ってきたよい」 「おーありがとうマルコ。助かる」 「ナマエ大変そう……。サッチわがまま?」 俺が悪戦苦闘している様子がマルコにも伝わるのだろう。お湯を嫌がり大泣きするサッチを見てマルコが尋ねた。我が儘、か。うーん、どうだろう。乳幼児にも我が儘って言葉は当てはまらない気がするしなあ。 「我が儘、ではないな。手がかかって大変なだけだ。多分赤ちゃんってのは皆こんなもんなんだろうし、サッチがっていうより俺が慣れてないことの方が問題なんだろうしなあ。でも、マルコがいい子でいてくれてるからすごい助かってる」 「本当?マルいい子?」 「ああ、いい子だぞー。マルコがいい子だと俺も嬉しい」 「えへへ」 はにかむようにマルコが笑った。持っていたタオルを台の上へ置き、「お昼ご飯温めておくよい!」と足早に風呂場から去って行った。本当にマルコはいい子だ。手伝いもしてくれるし聞き分けがいいし、滅多なことで我が儘も言わない。マルコが我が儘を口にすることがあるなら、それはよっぽどなんだろうなと思えるくらいだ。 「サッチもお兄ちゃんを見習えよー?」 「あぶー?」 桶のぬるま湯につけながらそう話しかけてみたが、当然ながら俺の言ってることは分かっていなさそうだった。
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胸のモヤモヤが日に日に大きくなっている気がする。その日の夜マルコは一人ベッドへ入った後、自分の胸をさすってみた。しかしその程度では何も変わらず、マルコは眉を下げて泣きそうなのをぐっと耐える。おかしいな、昼間ナマエに「いい子」って言ってもらえた時はあんなに嬉しかったんだけどな。 「んぅ〜……」 サッチの相手をするナマエはひどく大変そうで、今自分がわがままを言わないことが一番の『いい子』だろう。だからマルコはできる限り我慢した。一緒にお昼寝して欲しい時もお気に入りのタオルケットだけで我慢したし、絵本の読み聞かせも我慢した。ニューゲートは折を見て一緒に居てくれることもあるが、それでも以前に比べれば忙しそうであることに代わりはない。
マルコが一人で大人しくしていると、ナマエはとても喜んでくれる。「我慢して偉いな」、「さすがお兄ちゃんだな」、そう言われる度に、マルコは喉元まででかかった言葉を飲み込む。言ったら嫌われちゃう、そんな気持ちと共に。
でも寂しい。ほんのちょっと前までは一人なんか当たり前のことだったのに、今オヤジもいてナマエもいて、呼べば「どうした?」って振り向いてくれて、そういうのを知ってしまったらもう一人には戻れない。 そういう気持ちがサッチに対する暴力へ向かなかったことも、きっとマルコの優しい側面が表したことだったのだろう。親を取られてしまったと思い赤ちゃん返りをする、新しい弟に意地悪をしてしまう、そういう行動は決して珍しくないにも関わらず、マルコはただひたすら耐えることを選ぶ。ニューゲートとナマエが喜んでくれるから。それだけを理由に。
ふと視界に入ったナマエのベッド。なんとなく思い付いて、マルコはそのベッドに上がりナマエの布団に潜り込んだ。最近満足に洗濯できていない、そうナマエがボヤいているせいか、シーツに残る彼の匂いは少しだけ強い。でもそれはとてもマルコをホッとさせた。胸のモヤモヤが、ほんの少し晴れた気がした。 そしてそのままマルコは眠りにつく。一人でこの部屋にいることなど珍しくもないのに、心にぽっかり穴が空いた気持ちになるのはどうしてなんだろうか。そんなことを考えながら。
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ニューゲートがマルコの異変に気づいたのは、それから更に数日経ってからだった。朝から元気の無かったマルコが、船尾の樽の影に座り込んで下を向いていたのだ。そういえば最近マルコとちゃんと話していない気がする。ニューゲートもまた、以前よりも忙しくなった日常に少しばかり見落としがあることに気づいていなかった。 気配を消して背後から近づくと、マルコが自分に言い聞かせるように何かを呟いている。
「う、うっ、マル我慢しなきゃ、だってサッチは赤ちゃんで……マルお兄ちゃんで……。いい子じゃなきゃ、オヤジとナマエに嫌われちゃう」 「………」
知らず知らずのうちに、この小さな長男に我慢を強いていたことを知り、ニューゲートは愕然とした。そういえばサッチが来てから、最後にマルコに構ったのはいつだっただろうか。思い出すことができない。出来ないほど、前だったということなのか。
「マルもうお兄ちゃんだから一緒に寝て欲しいとか言っちゃいけないんだよい」 自分に言いきかせるような独り言が続く。 「ナマエと約束したからいいの!マルは我慢できるの!約束は守らなきゃいけないの!」 「………」 居たたまれなくなり、ニューゲートは静かにその場を離れた。
自分たちは間違いを犯していた。マルコは我が儘を言うこともなく不満を訴えることもなく、サッチのように泣いて主張することもしないから、つい勘違いをしていた。 『なにも言わないのは、問題が起きていないからなのだ』、と。
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