「今日も暑かったねえ。10月に入ったっていうのに夏みたいだ」 シャツの袖口で適当に汗を拭っていると、先生がそっとタオルを差し出した。袖口ばかりやたら汚れている俺のシャツを見て「君のその癖は治らないね」と眉を下げる。 「タオルとかハンカチとか持ち歩きなさい。明日も真夏日だって言ってたから汗かくよ」 「そういえば朝のニュースで熱中症に気を付けろって、原アナが言ってましたね」 「ああ、圭くんもあの番組見てるのかい。原ちゃん可愛いよねえ。嫁にもらうならあんな子にしなさい」 「しなさいって」 冗談っぽく言いながらもどこか本気な口調に、俺は思わず吹き出した。
普段子供と接することが多いためか、園長先生は感性が若いと良く思う。実年齢が20代である俺よりもはるかに。もう何年もシリーズが続く女の子向けの魔法少女アニメにやたらと詳しいし、この間はカードバトルがどうこうって言っていた。俺にはサッパリ分からなかったのだが。 最近は巷で人気急上昇中の原アナに夢中らしく、彼女がコーナー担当をしている占いにハマっている。 「圭くんはてんびん座だよねえ。今日はすごく良い運勢らしくて、探し物が見つかるかも?ってさ。ラッキーフルーツはパイナップル。今日の昼御飯は昨日の残りじゃなくて酢豚にすれば良かったねぇ」 「………先生、まさか全部覚えてるんですか」 「まさかあ。今朝はてんびん座が特別良かったから覚えてるだけだよ」 先生の後に続くように居間へと上がると、もうすでに帰宅していた中学生連中何人かが居間のテーブルで宿題をしているのが見えた。どうやら学校で叱られて特別多めに課題を出されてしまったらしく、ひいひい言いながらドリルに向き合っている。 「圭兄!手伝ってー!担任鬼なんだよぉ。こんな量一日で終わりっこないのに」 「やだよ。俺ようやく宿題から解放される年齢になったのに」 「圭兄の意地悪」 「はっはっは、なんとでも言いなさい。痛くも痒くもないわ!」 「圭兄汗くさい」 「今から風呂入るからな!すぐに石鹸のいい香りで包まれてやる」 「圭兄のヒョロ痩せ」 「………。それは言っちゃダメだ……」 「わぁ、ごめん」 わざと落ち込んで見せると慌てて謝ってくれた。ここの園の子供たちは時々問題も起こすが、皆素直でいい子だ。一緒に生活していた期間が長いから身内の欲目なのかもしれないが。
きっと、こんな風にこの先何年も過ごして行くのだろう。 中学生組がその内高校に上がり就職なり進学なりし、チビッ子も大きくなって。そういう成長を傍らでいつまでも見守る。俺自身も結婚し子供をもうけ、その内できればマイホームを買って子供も大きくなり孫が生まれる。 少しばかり生い立ちが特殊な俺の、何も特別なことなどないどこにでもあるような将来設計だ。 しかし俺はそれで満足している。特別でないことがどれだけ大切であるかを知っているし、必要以上に求めることが必ずしもプラスになるとは思わない。俺は、今俺の手の中にある物で十分満ち足りている。それ以上得ようとしたらきっと何か他の大事な物を取りこぼしてしまうだろう。だからいいのだ、今のままで。
───本当に?
胸の中で、誰かがそう尋ねた気がした。
「………」
その声を無視しきれず俺は一人押し黙った。目の前のテーブルでは一生懸命ドリルを解く小さな音が響いていて、彼らは俺が黙り込んだことには何の違和感も感じていないようだった。グラスに注がれていた誰のかも分からない麦茶を勝手に一口貰い、俺は喉の奥に張り付いていたモヤモヤを無理矢理押し流す。
『探し物が見つかるかも?ってさ』
先程先生に言われた今日の俺の占いの内容を反芻する。 俺が素直に「現状で満足」と思い切れない理由はきっとそこにあるのだろう。探し物。ずっと、10年来探し続けているもの。どうやったら見つかるのかも分からず、そして見つかる兆しさえないもの。
(見つかったらそれはそれでありがたいけど) 残念なことに、俺の見つけたいものは占い程度に左右されるもんじゃない。無くしたと思っていたペンを掃除中に発見するかのような、そんな単純な話でもない。それに俺の誕生日は正確にはその日じゃないかもしれないから、そもそもてんびん座ですらないかもしれないし。 しかしそれでも良い運勢だっていうのは決して悪い気分では無かった。期待はしないが。
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