subtle前編
「あれ、どこ行くの?」
「ちょっと走ってくる。宿題終わったし」
「いいけど雨降るかもって予報で言ってたから気を付けて」

スニーカーの紐を結び頷いて涯は玄関の扉を開けた。
出ていくパーカーの後ろ姿を見送って、零は小さな溜め息を吐いた。

かなり派手に世間を賑わせた事件。真相の詳細が世間に流れる事はなかったけれど知る者は少なくない。その気になれば金とツテとコネでいくらでも調べられる。零もそうして涯の事を知った一人だった。
生い立ちも度胸も手腕もなかなかに面白いと方々の組織が狙っているのを知って早々に手を打ち、退院前に涯と取引をした。

『俺の所から学校に行けばいい。火の粉は払ってあげるから、代わりに卒業まで俺の手伝いをして欲しい』

中学も卒業しないままヤクザの世界に生きるのはさすがに涯としてもご免だったし、かと言って行き場もない。学校生活は嫌いだけれど勉強はしたい。提示された手伝いが面白そうだったのも決め手となって涯は零の家へ転がり込んだ。
それから一ヶ月が経つものの、未だに打ち解けてくれる様子がない事を零は悩んでいた。
一緒に暮らしているはずなのにほとんど顔を合わせる事がない。零が家にいると何かと理由を付けて涯は家を出てしまう。間借りしている負い目のように掃除や洗濯をしてくれる事もあって、手伝いながら色々話しかけてみるものの短い返事がたまに返ってくるだけ。
食事を用意してもほとんど手もつけてくれない。
事件前までは無一文同然だった涯は協力者の刑事のおかげで慰謝料という名の口止めを手にしている。その小銭を使い自分の部屋で買ってきたものを食べている様子。いくら零が歩み寄ろうとしても暖簾に腕押し、まるで手応えがない。
キャッキャウフフと女子のように慣れ合うとまでは考えなかったけれどもう少し親しくなれると思っていた。一緒に暮らしていても家族にはなれない。でも友人にならなれるのに。
零が夕飯と入浴を済ませている間涯は自室にこもっていた。さっきの話から察するに勉強していたらしい。済んだなら風呂に入るなり、共にリビングで過ごせばいいのに寝るには早いからとトレーニングに行ってしまう。自分の時間をどう使おうと涯の自由だけれど……

ソファーに体を沈めていた零は不意にサアァァァという音に気がつき立ち上がって窓辺に寄った。

「雨だ……」

涯が出て行ってそう経ってはいない。まだ近くにいたらすぐに引き返してくるだろうか。零はタオルを玄関へ持っていく。 自分はシャワーしか浴びなかったけれど浴槽に湯も張っておいた。
準備は済ませたのに未だに涯は帰宅しない。そんなに遠くまで行ってしまったとは考えにくいのに。
玄関を開けて外を窺うと雨足が強まっている。いてもたっても居られない気持ちになって、スタンドから傘を抜くと零は外へと出た。
行き違いになっても困るからマンションのエントランスを出た通りで辺りを見回す。大通りでもないから時折車が走り抜けて行く他は静かなものだった。十時になるかならないか、そんな時間なのに人影はほとんど見られない。それもそのはず、大粒の雨はバシャバシャとバケツの水をひっくり返したかの如く零の傘を打ち付けていた。

腕時計と代わり映えしない濡れた通りの奥とを交互に未遣る零に段々と焦りの色が見え始めてくる。いくら何でも遅すぎる。雨が降り出してすぐに帰路に着けばとっくに戻って来てもいいはず。未だ帰らないという事は、雨でも構わないとロードワークを続けているのか。さすがに荷物などは何も持っていなかったから家出ではないだろうけれど……しかし小雨ならともかくこの土砂降り、夏の盛りはとうに過ぎて夜は涼しくなってきたのに。

幾度も時計とにらめっこして、遠くに目を凝らした零の視界に、微かに人影が映った。暗い上にフードを被っているから分かりづらいけれど見覚えのある白いパーカーが薄ぼんやりと街灯に光っていた。

「涯君っ!!」

走り出す零。声が届いたかは不明でも駆け寄り距離が縮まると俯き加減だったフードが顔を上げた。

「零……何してんだ?」
「何じゃないだろ!こんな天気でいつまでも外にいるなんてっ」
「……」

放っておけばいいとか、面倒なら適当に悪かったと流すとか、普段の涯ならそんな反応をしてくるだろうと予測していたのに意に反して大人しい。様子がおかしい。
ビショビショに濡れたフードの中に手を突っ込んで額を触ると雨のひんやりした冷たさの奥に明らかに自分よりも高い体温を感じた。

「熱出てるじゃないか!早く拭かないともっと上がるよ?!」

コクンと思ったより素直に頷くところを見るとたぶんかなりしんどいのだろう。肩を貸し、同じ傘に入って足早にマンションまで戻る。
玄関でタオルを使い滴る水気を拭くと零は涯を風呂場へと押し込んだ。

「自分で洗える?手伝おうか?」
「大丈夫……」
「分かった。何かあったら呼んで、すぐ来るから」

涯を浴室に残して、零は水枕を作りにキッチンへと向かう。
氷と水とを袋へと詰めて、普段はあまり入らない涯の部屋のドアを開いた。必要な家具は揃えた状態で涯に与えたけれど、一ヶ月経ってもほとんどそのまま。机に教科書や好きなのか三国志が並んでいるくらいの変化。
クローゼットを開けると制服と幾つか私服が掛けられている。ゴソゴソとそこを探ってパジャマ代わりにいつも着ているスウェットと下着を出す。ベッドに水枕を置いて、ふと部屋の隅のごみ箱に目が向く。中には菓子パンの空き袋が一つ入っていた。ごみ箱の中身は今朝集めて集積所に持って行った。すぐに涯は登校して、零の夕飯の仕度が終わる頃に帰ってきた。涯の分もあるのに要らないと部屋に引っ込んで、出てきたと思ったら外に行ってしまったのだから、つまりこれは涯の夕飯の残骸……。こんな食生活を続けていたら免疫力も低下する。鍛えているはずの涯が雨に濡れたとはいえ随分早く熱を出すものだと思ったが、もしかしたら走りに行くよりも前から体調が悪かったのかもしれない。
市販の風邪薬はあるけれど、飲ませる前に何か食べさせた方がいいかもと零はキッチンに戻った。

ガンガンと脈打つ痛みが頭を締め付ける。体が重く気持ち悪い。のそのそと手を動かし髪や体を洗っていくけれど動作の一つ一つがだるくて仕方ない。
何となく不調なのは知っていたけれど、ここまで辛くなるとは思っていなかった。降り始めた時、別にこれくらいなら平気だと思いそのままいつものコースに足を向けたらあっという間に本降りに変わってしまった。参ったなと後悔しても後の祭り、濡れて重くなった服が纏わりついて体を冷やし、寒気を覚えた時には既に発熱していたようだ。
走る元気がなくなって何とか家を目指し歩いて、思考が朦朧としだしたら目の前に零がいた。どうして居るのかとか、心配掛けたと申し訳なく思うよりも先にホッと安堵した事は涯にとって驚きだった。
同居を受け入れた時にはこうなるなどとは微塵も考えなかったけれど、零が傍に居る事ですぐにある懸念が湧いた。だから距離を置いた。必要以上に関わらなければ何も起きないと信じていたのに、いつの間にか危惧した通りになっていた。
どうすればいいのか今後の身の振り方を考えなければいけない。しかし今は頭が上手く働いてくれない。重症だ……。

「涯君、大丈夫……?」

風呂場の戸を挟んで零が声を掛けてくる。なかなか出ないから様子を見に来たらしい。磨ガラスの向こうに見えるぼやけたシルエットにすら気持ちが落ち着いてしまう。和むと同時にせり上がってくる焦燥。危ない。もし普段通りの体調なら時間など問わずに家を飛び出していたはずだ。
それが出来ないとなれば、なるべく構わないでいてもらうしかない。

「大丈夫……もう出るから」

湯船で体を温めたお陰で濡れて冷えていた手足にも血が巡っている感じ。ただダルさは増している気がする。これ以上入っていたら逆上せるなと湯船の縁に手を掛け立ち上がる。が、サァッと目の前から血の気が引き視界が真っ暗になる。立ちくらみだ。
意識は辛うじて残っていて咄嗟に縁を掴むものの立っていられず、バシャンと湯の中にしゃがみこんでしまった。

上がると言った涯がガラスの向こうで立ち上がる気配があったのに、直後派手な水音と共にシルエットが消えた。何事かと慌てた零は許可もなしに風呂の戸を開けた。鍵は掛かっておらず、湯気の中に今にも倒れそうな涯がいる。

「涯君?!」

立ちくらみを起こしたのは状況から推察出来たけれど、よほど酷いのか一向に立ち上がる気配がない。声を掛けても聞こえているのか微かに呻きはするのに返事になっていない。
零は自身の服が濡れるのも構わず涯を浴槽から抱き抱えて脱衣所のバスマットへと運び座らせた。涯は床に手を付き必死に動こうとしているけれど全く力が入っていない。
体を拭いてやり、自分の濡れてしまった服をその場に脱ぎ捨てた零は再び涯の体を抱え部屋へと運ぶ。
ベッドに横たえられた涯。顔色がかなり悪い。風邪のせいだけじゃない、貧血気味だなんてやはり日頃の栄養が偏り過ぎているからだ。こんな事なら無理にでも食べさせておけば良かったと零は歯噛みした。

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あきゅろす。
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