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「明日」なんて夢物語§





APTX4869を呑まされたとき、俺は死を覚悟した。

骨が焼けるような熱さに身体が悲鳴を上げ、表現のしようもない苦しみが俺を襲った。

それはあまりにも耐え難く、無意識に指が草を掴み、土を抉る。


「死」はあまりにも突然で__自分の愚かさを後悔し、未来の儚さに絶望した。


このときは、幼児化という偶発的な作用で奇跡的に一命は取り留めたものの、「死」を覚悟しなければならないことは思いの外世の中に満ち溢れていた。

例えば、犯人に刺されたとき。

例えば、組織との銃撃戦。

致命傷になりかけない怪我を幾度となく負いながらも、俺は辛うじて生き永らえていた。


__だからだろうか…。


黒の組織との闘いを過去に持ちながら、しかし、俺は「明日」が来ることを当たり前に思っていた。









__そう……あのときまでは…__。










§_§_§_§_§












病室の戸を開けると、真っ白なシーツに包まれて小さな男の子が眠っていた。
ベッドに近づいて覗いたその顔は、どう控えめに見ても穏やかとは言い難い。
眉根の寄せられた幼顔に胸が締め付けられ、血の気の失せた白い顔にかかる黒髪をそっと、梳いた。
不意に、その無垢な瞳が開かれる。
しばらくぼんやりしていた瞳は、やがて焦点を結んで俺を写した。
不思議そうに見つめるそれに、俺は微笑んだ。
「おはよ、コナン。調子はどうだ?」

ベッドに横になっている男の子は工藤コナン。
18歳もの歳の差がある俺の弟だ。
母さんの妊娠が分かったとき、知人たちも最初は驚いたものの、すぐに「おめでとう」と祝いの詞(ことば)を投げかけてくれた。
多くの人に祝福されてこの世に「生」を受けたコナンは海外で育てられていたが、コナンが生まれてからは両親が突発的に帰って来ることも頻繁になった。
俺は長い間一人っ子だったからか、はたまた歳の差が親子ほどもあるためか、時折見せる生意気すら愛しく思えるのが不思議だった。

俺の質問に答えようと、枕に頬を埋めたままコナンは僅かに首肯する。
「…だぃ……ぅ…だ…ぉ」
大丈夫だよ、という唇の動きで言いたいことを察し、コナンの鼻を人差し指で突つく。
「ばーろぉ。無理に声出そうとすんなっていつも言ってるだろ」
コナンは目を瞑って肩を竦め、だって、と声を絞り出した。
尚も言い募ろうとする弟の前髪を払って、俺は笑顔を浮かべた。
「大丈夫。お前ぇの言いたいことくらい、唇の動きで分かるから」
それでも、声が出ることを確かめたいのだという切ない思いには気づかないふりをして、何かを言いたげに見上げるコナンの髪をくしゃくしゃと掻き混ぜる。
頬を膨らませて不満を込めた視線を送るコナンに軽く笑いを残して、俺は窓に歩き寄った。

コナンは声が出しにくい。
どうやらコナンを蝕む病の影響で、よく扁桃腺が膿んで痛いらしい。
今は顔色が白いから発熱はないようだが、熱が上がりやすいのは夕方から明け方にかけてだから油断はできない。

俺は気を紛らせようと、睨んでいたカーテンを豪快に開けた。
一気に病室に差し込む光は麗らかで、見下ろす中庭の木々は青く茂っている。
次(つ)いで窓を開ければ、肌を撫でる風が適度に冷たくて心地良かった。

思わず伸びをしたくなる、そんな天気だった。

「ん〜…良い天気だな。コナン、今日は中庭で散歩しようぜ」
窓を背にして振り返ると、こちらを向いていたコナンが満面の笑みを浮かべて、一つ頷いた。



コンコン。
部屋に響く乾いた音に返事を返すと、白衣を着た看護師がトレーを持って入って来た。
はじめに少しだけ俺と挨拶を交わした後、コナンに向き直る。
「おはよう、コナンくん。気分はどう?」
コナンは満面の笑顔で首肯した。
"大丈夫だよ"
「なんかご機嫌だね、コナンくん。何かあった?」
看護師はトレーを机に置き、体温計をコナンに渡す。
それを受け取って俺がコナンの身体を起こし、背に枕を敷いて寄りかからせ、脇に挟み込んでやった。
"あのね、新一兄ちゃんが中庭に連れて行ってくれるって言ってくれたの!"
興奮した様子で語るコナンに微笑して、聞こえない声を代弁する。
「さっきカーテンを開けたら良い天気だったので、弟と一緒に中庭を散歩しようと誘ったんですよ」
「あら、それは良いわね。今日は元気そうだし、中庭くらいなら良いでしょう。楽しんでね、コナンくん」
"うん!"
コナンの笑顔が眩しかった。
「相変わらず仲が良いわね、あなたたちは」
「唯一無二の兄弟ですから」
少しだけ難しい言葉を使ったのは、コナンに意味が知れると恥ずかしいからだったけれど、それは紛れもなく本心だった。
そのとき、ピピピッと体温計が鳴ったので、俺はそれを引き抜いて看護師に渡した。
画面に表示されていた数字は平熱の範囲内だった。
「本当に優しいお兄さんね」
"僕、兄ちゃん大好きだから、寂しくなんかないよ"
見間違えるはずもない唇の動きがそう語り、俺はコナンの笑顔から視線を背けた。
薬をお湯で溶(と)きながら、コップの中で廻る液体を見るともなしに見やる。
もしコナンの声が出ていたら、一体どんな声音で語っただろうかと考える俺は、心が弱っている証拠だ。

父さんと母さんはコナンのことが落ち着いてきた頃、さらに仕事の忙しさに拍車がかかり、今ではプライベートな時間なんて皆無に等しい。
以前コナンが風邪を引いて、たった二日ほど休暇を取ったときなどは、事務所の電話は鳴り止むことがなく、ファンが暴動を起こしかけたというから、以来ろくに休みさえ取れない状況だ。
倒れてしまうのではないかと心配するほどの仕事量をこなしている両親は、もちろんコナンの看病に帰国することさえ許されない。
コナンの病気を公にすれば、もしかしたら可能なのかもしれないが、コナンが悲劇の主人公としてテレビなどに取り上げられることは我慢ならなかった。
工藤新一の身体に戻って以来、メディアに顔を出さなくなった俺は探偵業を一時中断し、両親の代わりにこうしてコナンの看病に明け暮れている。
やはり血筋か、コナンは察しが良く、両親が帰国できないことも、俺が自分のために探偵を休んでいることもちゃんと理解していて、時折さっきのような強がりの台詞を口にする。
しかし、どんなに物分りの良い弟を演じても、夜中にこっそりと泣き、本当はその小さな胸を痛めていることくらい、俺は知っていた。

「そう。それなら心強いわね」
にっこりと微笑む看護師にその眩しい笑顔を向け、じゃあねと去る背中をコナンは上機嫌で見送った。
「ほらコナン、口開けろ」
トレーに乗せられたお粥をレンゲで掬い、一口食べて適温になったことを確認し、コナンの口元に運んだ。





朝食を食べ終えてから、コナンを車椅子に座らせて外に連れ出した。
中庭には病院着を着ている人や看護師、見舞いに来た人がたくさん日向ぼっこに出て来ていた。

ここでは、どの人たちも笑顔で談笑している。

そのことにひどく安堵し、自然と微笑が口元に浮かんでいた。
大きな木の影に車椅子を固定し、後ろのポケットから文庫本を二つ取り出した。
「そういえば、昨日"真夜中の実験室"の新刊が出たんだよ。ほら」
膝の上に一冊の文庫本を乗せると、コナンは本当!?と瞳を輝かせてそれの題名を確かめた。
それが彼の待ち望んでいた本だと知るや、コナンはそれを胸に抱いて興奮した様子で礼を言った。
「それの前刊も持って来たから。一回読み終わったらまた読み直すんだろう?」
コナンは勢いよく首を縦に振った。
"ありがとう、新一兄ちゃん!!"
「わあったから、少し落ち着けって。また気持ち悪くなるぞ?」
微笑半分、苦笑半分で小さな頭をくしゃりと撫でた。
へへへとコナンは上機嫌で笑みを漏らし、少しだけ首を傾げた。
"でもさ、外に出ても本読むんだったら、部屋にいるのと変わらないよね"
「そうだな」
それでも、外にいるのと内に篭っているのでは気分は異なるだろう。
無邪気なコナンの笑顔に、俺は笑みを深くしたのだった。



兄弟で並んで、共に本を読み進める。
俺たちが言葉を交わすことはなかったが、意識の外では絶え間なく雑音が耳に届いていた。
集中を乱すはずのそれが苦にならないのは、コナンが隣にいるからだ。
コナンが新刊を読んでいる間俺は前刊を読み、コナンが前刊を読んでいる間に俺は新刊を読み終えた。
ふうと一息ついて、木の影が随分短くなっていることに気づく。
太陽を見上げると、もう天頂近くまで上っていた。
「通りで喉が渇くわけだ」
伸びをしながら苦笑する。
「ぇ、こほ…新一兄ちゃん何か言った?」
しばらく声を出していなかったためか、枯れているが久しぶりにコナンの声が鼓膜を揺すった。
コナンの正面に移動し、その頭をくしゃりと掻き混ぜる。
「喉乾かねーか?俺、売店で飲み物買ってくるな。すぐ戻るから、お前ぇは続きを読んでろよ。ほら、もう一回新刊を読むだろう?」
僅かな間だが離れることを示唆した台詞に、コナンの顔が微かに歪んだ。
しかし、何もなかったかのようにすぐに不安を押し隠し、コナンは笑って頷いた。
すぐ戻ってくるからよ、ともう一度髪をくしゃくしゃにして新刊をコナンの膝上に置き、俺は建物の中に入っていった。



自販機は玄関の傍にある。
本当は来客用の販売のみで病人は飲んではいけないのだが、たまに一緒に飲むのが俺たちの僅かな贅沢だった。
コナンの病気を知っている志保に確認したところ、頻繁でなければそれくらいの贅沢はいいだろうとお墨付きを貰っている。
紙コップに注がれたブラックコーヒーと甘いココア。
コナンは糖を多く取るように言われているから、ちょうど良い。
ココアを一口飲んだときの、コナンの輝くような笑顔を思い出し、俺は一人微笑しながらコナンのところまでのんびりと歩いていた。
コナンまであと20歩くらいのところで、俺はコナンに声を掛けた。
「コナ〜ン、ココア買ってき…__」
俺の声が不自然に途切れたのは、本を読んでいると思っていたコナンが顔を上げたとき、その瞳が潤み、頬が濡れていたからだった。
「おい、コナン?」
駆け足で近寄り、カップをベンチに置いて、コナンの正面に膝をついた。
その間、コナンは涙を止めようと必死に目を擦っていた。
その手を掴み、じっと濡れた瞳を見つめた。
「どうした?何があった?」
"何も…ないよ?"
ポロリと、堪えきれなくなった雫が再びコナンの頬に流れた。
こんなときでも笑おうとする弟が切ない。
手を伸ばし、コナンの背と背凭れの間に割り込ませ、力いっぱいコナンを抱き締めた。
「我慢すんなって。泣きたいなら泣けよ。怒ったりしねーから」
「し、ん…ぃにーちゃ…」
ギュッと服を掴む力が伝わり、声が震えて肩が涙で濡れる。
喉の痛みの所為で嗚咽を漏らすこともできないコナンの震える肩を、痛いくらいの力で抱き締めた。
耳元で響くコナンの息が荒く、胸が掻き乱されるようだった。

病気になってから、コナンが人前で泣いたことは一度もない。
いつも、たくさんの人に笑いかけ、疲れた心や荒(すさ)んだ心を癒してくれた。
俺だって、幾度元気づけられたか知れない。
看病だと銘打って、コナンを励ますために傍にいたはずなのに、きっと俺がコナンに与えることができたものより、コナンに与えられたもののほうが多い。
__そんなコナンが泣いている。
人前では決して弱音を吐かなかった弟が、俺の胸に縋って泣いている。
それは当然の光景のはずなのに、珍しさと寂しさに胸が詰まって、小さくて細いその身体を掻き抱いた。
眉根を寄せ、瞼を閉じた俺の目から、熱いものが頬を伝った…。

「…げほっ…ごっほ…っ…_っぁ」
「コナン?」
嗚咽に混じってコナンが咳をする。
痰が詰まって呼吸が止まりそうになっていた。
顔が赤く、何度も何度も咳をして痰を吐き出そうとする。
その背を何度も何度も撫で続けた。
「コナン、ゆっくり…ゆっくり深呼吸して。ほら、吐いて。吸って…」
俺の言葉に添って深呼吸を繰り返すコナン。
しかし、咳がぶり返して短い喘息を起こした。
心臓を鷲掴むように左胸の服を握りこみ、前屈みで咳き込むが、ごほっ、と一際大きな咳を最後に喘息は収まった。
「っぁ……は…ぁ…」
荒い呼吸を正そうと深呼吸をする。
ゼーゼーという喘鳴が聞こえて、ひどく苦しそうだ。
何も力になれない無力さを呪い、俺は拳を握り込む。
"兄ちゃん、ごめ…"
上目遣いに謝る弟に、お前ぇが謝る必要はないんだと怒鳴りたくなる。
乱れた思いに蓋をするように半瞬瞑目して、一拍だけコナンの頭を抱き締めた。
「お前ぇが謝んなって。医者のところ行こうな」


__顔を上げた俺は…ちゃんと笑えていただろうか…?


車椅子のストッパーを上げて、後ろから押し進めた。
コナンは焦ったように動き出した車椅子から身を乗り出し、後ろを振り向いて何かを訴えた。
"兄ちゃん、ココア!!"
「だめ。ちゃんと座ってろ。あとでまた作ってやるよ」
名残惜さそうに押し黙ったコナンの頭をそっと撫でてやった。





主治医の診察を受けた後、俺はコナンを連れて病院内の一室に入っていった。
ここで定期的に、コナンの身体をマッサージしてもらうのだ。
この場所はコナンのお気に入りでもあるので、少し離れても問題はない。
そっとその部屋から抜け出し、俺は壁に頭を凭(もた)れかからせた。
肺の空気を全部吐き出し、瞳を閉じる。

コナンが身体が痛いと訴え、歩くことや自らの意志で身体を起き上がらせることが難しくなったのは、いつからだろう…?
随分と前のような気がしていたが、何気なく日にちを数えてみると、さして遠い過去ではなかった。

__どうして…。

眉根を寄せて熱く滲むものを堪え、身体の横で拳を握ってそんなことを考えても、どうしようもなかった。

やがて、傍に人の気配を感じて、うっすらと瞼を押し開ける。
「…お疲れさま…」
少し低めのアルト。
顎の下あたりで揺れる、赤茶けた髪。
心配しているのか、少し下がり気味の眉。
こちらを見上げる翡翠の瞳。
それが、憐れみではなく労りを含んでいることに気づいて、俺は志保の肩口に顔を埋めた。
しばらく、志保が髪を梳いてくれる感覚に目を閉じる。
人気のない廊下。
時が止まったかのような幻覚に囚われて、俺は縋るように志保に抱きついた。
「…コナンくん、どう?」
意を決したように沈黙を破った声は、一見無感情のようで、しかし、全てを知っているかのように儚く響いた。
「さっき、軽い発作を起こしたんだ。すぐに治(おさ)まったけど、医者に見せてきた」
「…お医者さんは、なんて?」
俺は、そっと瞳を閉じた。
マッサージが終わるのはもう少し先だから、ここで診察結果を話してもいいだろうか…?
コナンには絶対に聞かせられないが、誰かに話さなければ俺の心が粉々になりそうだった…。

「……そろそろ、ご家族の方を呼ばれた方が良いでしょう…って…………」

無情にも告げられた言葉。
暗に含まれた、その意味。

志保が、息を呑んだ気配が伝わってくる。
より強く、志保を抱く腕に力を入れて、俺は願わずにはいられなかった…。

__時が、止まればいいのに…。

このまま、時間が止まれば…コナンともっと遊べるのに…。

あいつは、まだ何も知らないんだ。

あいつに教えたいことも、話したいことも、見せたいものも…何も、叶えられていない…。

__どうして…。

「どうして…あの病気にかかるのが、俺じゃなかったんだよ…。あいつは、何も悪いことしてねーのに…。殺すなら、俺を殺せばいいのに…。なんで……っ!!」
どうしようもない思いを志保にぶつけても、何にもならないことは解(わか)っていた。
それでも、吐き出さずにはいられなかった俺は、感情の制御がままならない、ただの子供だ。
「__工藤くん……」
志保が、そっと俺を呼ぶ。
しかし、その声は僅かに震えていて、先が続かなかった。
表に現れる哀しみより、何倍も彼女が心を痛めていることはわかっている。
きゅっと俺の服を握る手に力が込められたのを感じて、俺は志保を安心させるように優しく抱き直した。
「工藤くん……そんなこと、言わないで…」
"そんなこと"がどれを指すのかを理解して、俺は口元に嘲笑をはいた。

組織との闘いを終えて尚生きていることに絶望して、志保に戻った当初、彼女はよくこう零していた。
お姉ちゃんじゃなくて、私が死ねば良かったのに…っ、と__。
何度も自殺を目論見る彼女を、俺は強く強く抱きしめて、そんなこと言うな、と繰り返してばかりいた。
それがどれだけ陳腐な言葉だったのか、今なら解る。
それでも、彼女を失いたくはなかった。
その我儘な想いで志保を引き留めた俺に、自らが彼女に課した言葉を裏切るわけにはいかない。

「わりぃ…。もう、言わねーよ」
だから泣くな、と志保の頬を伝い落ちる涙の雫を指の腹で拭い取った。
そのまま熱を持った瞼に口づけを落とし、そっと腕を伸ばして優しく抱き合った。





がらりとコナンのいる部屋の扉が開いたのは、それからしばらくしてからだった。
自分で車椅子を進めて出てきたコナンは、志保を見つけると一瞬で輝かしい笑顔になった。
キラキラと眩しい星がコナンの周りに飛んでいるようだった。
普段女っ気が周囲にないためか、コナンは志保を姉のように好いている。
「志保お姉ちゃん来てたんだぁ!!」
マッサージをしてもらった後なので、喉の調子まで良い。
志保は俺と絡めていた指を離してコナンに近づき、目線を合わせて微笑した。
「こんにちは、コナンくん。今日は調子が良さそうね」
「うん!…こほ」
声の出し過ぎで咳が一つ零れる。
「ったく、そんなにはしゃいで声出すからだろ。志保も唇の動きで読めるんだから無茶すんなって」
お仕置きだというように、コナンの頭を軽く押し付けた。
"兄ちゃん!"
コナンの非難にも俺は悪びれずに、笑いながら手を退かすと、コナンは志保に向かって照れ笑いをする。
"ちょっと失敗しちゃった"
てへっという声が聞こえそうな顔で、コナンが頭を掻いた。
その様子に、志保はクスクスと笑みを零した。
「元気そうで何よりだわ」
"ねぇ、今日は志保お姉ちゃんいつまで居られるの?"
身を乗り出し、弾んだ様子で尋ねるコナンに、志保は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめんなさい、今日はあまりゆっくり出来ないの。研究所に戻らないといけないのよ」
その言葉に、コナンは瞬く間にしゅんと肩を下げ、俺は微かに目を瞠った。
「そうなのか?」
「ええ。ちょっと、後輩が失敗してね…。期限が迫ってるから早めにやり直さないといけなくて…」
どんどん拗ねて不機嫌になっていくコナンに気がついて、志保は苦笑してフォローをいれた。
「でもね、今日は家に帰る日でしょう?夜は早めに帰ってくるから、一緒にご飯食べましょう?」

コナンは月に2度くらいのペースで、調子の良い時を選んで工藤邸に帰っている。
さっき診察してもらったときも、医者から許しが出た。
もっとも、今回は別の意味が含まれていることも、俺たちは気づいていたが…。

コナンはすぐに機嫌を戻して、うん!と頷いた。
"待ってるね!"
明るいコナンの笑顔につられて、志保も俺も笑顔になる。
「ええ、約束ね」
コナンが志保に小指を突き出すと、志保もそれに小指を絡めて指きりをした。
志保が帰るまで、コナンは始終ご機嫌だった。





志保と一緒に病院を出て、俺の車で志保を研究所に送った足で、俺たちは工藤邸に帰ってきた。
コナンを車から降ろし、玄関を過ぎて家に入る。
俺も、コナンの看病のために病院に寝泊まりしているので、久しぶりの我が家だ。
ほとんど主のいない家にも関わらず埃が舞わないのは、志保が時々掃除をしてくれているからだと知っている。
コナンの車椅子を押しながら廊下を歩いていると、不意に服の袖が二度引かれた。
はっと我に返ってコナンに視線を戻すと、コナンが悪戯っ子のような意地の悪い笑みを浮かべている。
"兄ちゃん、さっき志保お姉ちゃんのこと考えてたでしょう?顔がニヤついてるよ"
図星な指摘に、慌てて口元に手を当ててみると、無意識のうちに筋肉が緩んでいた。
コナンには誤魔化しが効かないことは分かっているので、どうしようもなく苦笑した。
"ねぇ、兄ちゃん。お腹減った"
不服をそのまま現したように、コナンはぷっくりと頬を膨らませる。
「あぁ…そういや、まだ食べてなかったな」
何が食べたいかと問えば、お姉ちゃんのお粥と返ってくる。
視線を背け、ひまわりの種を欲張ったハムスターのように膨らんだ頬のコナンを、苦笑しながらその頭を撫で回した。
「それは夜まで我慢してもらわなきゃな」
憮然と口を尖らして、コナンの口がわかってるもん、と動いた。
「お昼は俺の愛たっぷりの粥を作ってやるよ」
一階に整えられたコナンの自室のドアを開けたとき、コナンはもう一度振り返ると、さっきと同じような笑みをはく。
"焦がさないでね?"
にっこりと微笑むその顔に、思わず脱力した。



「おお〜い、コナン。やっとできたぞ〜」
ほくほくと湯気の上がる粥が乗った盆を手に、俺はコナンの部屋に入る。
椅子をベッドの傍に引き寄せてベッドサイドに盆を置き、コナンが体を起こすのを手伝った。
"あ、匂いは焦げてないね"
悪戯に笑う弟にデコピンをお見舞いする。
「ばーろぉ。粥くらい作れるっての。んな生意気言うんなら、食後のココアはなしだな」
最後の切り札を閃かせた俺の言葉に、コナンは一瞬瞳を輝かせた。
"えっ!!……やだ、やだ。ごめん、新一兄ちゃん。謝るから、許してよぅ"
途端に瞳が潤み、泣きそうに表情が崩れる。
普段は生意気で強がりばかりを口にするくせに、こういうところは年相応で、俺はどことなく安心するのだ。
「わあったから、泣くな」
思わず苦笑を浮かべて、コナンの頭を乱暴に撫でた。
コナンが涙を拭いたのを見届けてから、粥の入った盆を膝に置き、レンゲにふうふうと息を吹きかける。
一口口に入れて適温に冷めたことを確認し、コナンの口元にレンゲを差し出す。
「ほら、ちゃんと食えよ。食わねーと治るもんも治んねーぞ」
アーンと大口を開けさせて、粥を口に入れる。
俺が次の一口を冷ましている間、コナンは一生懸命に口を動かして嚥下していた。
その一つ一つの行動を確認して、俺の心を安堵が満たす。

…まだ、生きてる。

__だから、大丈夫。


そう言い聞かせて、俺は一日を過ごすのだ。


「__ぁぁ、母さん。うん、今日は割と元気だったよ。……ああ、処方は変わらず。そんで、今日は家に帰ってんだ。…あ、コナン?さっきは寝てたけど……おう、起きたらテレビ電話に繋ぐよ。…わあってるって。じゃな。父さんも母さんも倒れたりすんなよ。…俺?俺は元気だぜ。だから余計な心配してんじゃねーよ。………あ、わりっ。またな」
別れの言葉の直後に、携帯からの音声はぷつりと途切れた。
ものを言わなくなった塊を手に、俺は息を吐き出す。
母さんからの電話は突然かかってきて、マネージャーの声で打ち切られた。
おそらく、休憩の時間か打ち合わせの間にでもかけてきたのだろう。

母さんは毎日こうして電話で様子を聞く。
いくら仕事が忙しいとは言え、やはり母なのだから、幼い息子を心配しないわけはないのだ。

さっきは言い損なったが、近いうちに数日の帰国を予定に組んでもらうように言わなければならない。
やはり、どんな状況であろうと、最期のときは家族で立ち会いたい。

携帯をぱかりと開くと、眩い光の中で志保を含めた家族全員が笑っている。
これは、まだコナンの病気が発覚していない頃、皆で出掛けた家族旅行のときのものだ。
はじめは家族旅行だからと遠慮していた志保だったが、母さんとコナンの泣き落としに負け、一緒に旅行することになったのだった。
図(はか)らずとも最後の旅行になった思い出深い一枚だ。
「…また、行きたいな…」
あのときの楽しさを思い出し、思わず思いが口から零れた。
コナンが最期を迎える前に、もう一度くらい旅行に行きたい。
できるだけたくさんの思い出を、記憶として遺したい。
それは、俺のエゴなのかもしれないが…。



薬と湯を持ってコナンの部屋に入る。
顔色が赤くなった弟の額に手を当ててみると、案の定、肌から伝わるのは手よりも明らかに高い体温。
ベッドサイドの救急箱から熱さまシートを取り出し、髪を掻き分けて額に貼った。
突然の冷さにコナンの眉が寄り、苦しげに呻いた。
ごほっごほっと咳をつき、コナンが体を丸める。
枕に頬を埋めるようにして、コナンは嘔吐を予感させるような咳を繰り返した。
「おい、コナン、大丈夫か?」
軽く揺すって覚醒を促してみると、コナンは小さく呻いて、薄く瞼を押し上げた。
"……にぃちゃ…"
息が荒く、眼を眇(すが)める姿に胸がいっぱいになる。
「起きれるか?薬飲もうぜ。そしたら少しはマシになるだろう?」
眉間に皺を寄せたまま、コナンは僅かに首肯する。
ちょっと待ってろよと声を掛けて、俺は湯に薬を溶いた。
それをひとまずベッドサイドの机に置き、コナンを起こす。
カップをコナンに渡すと、コナンは息を吹きかけて冷まそうとした。
ふうふうと息を吹きかけるときでも、時折咳が混じる。
一口二口と飲み込み、残り少なくなってカップを傾けたとき、コナンが咳をした。
ごぼっと音とともに、コナンは薬を吐き出して咽(む)せる。
咽せは一度止まったかに見えたが、すぐに喘息が始まってしまった。
背を撫で、落ち着かせようと試みるも、コナンの顔は息ができなくてどんどん青くなっていく。
不意に、コナンが口元に手を当てた。
どうしたと声をかける前に、小さな紅葉の隙間から吐瀉物が零れ落ちる。
「おい、コナンっ!!」
俺はすぐに押さえている手を外させ、ベッドサイドに常置されているボウルをコナンの膝上に置く。
どうすることもできない俺は、コナンの背をたださすり続けた。
無意識に視界に入った吐瀉物の中に、赤いものが混じっている。
その正体に気づいたとき、俺はコナンを強く抱きしめた。
「…にぃ、ちゃ…。汚れ…るょ…」
「んなこと関係ねえっ!!」
荒々しく、半ば叫ぶように否定して、俺はまた腕の力を強くする。
こんなときでもそんなことを気にする弟が、どうしようもなく切なかった。
唇を噛んで、熱く込み上げるものを我慢する。
その間にも、ごほごほとコナンが咳き込む振動が直接伝わり、喘鳴と唸りが鮮明に鼓膜を揺らす。
生理的な涙がコナンの目から零れて、俺の胸を濡らした。

どうして…こんな小さな子供に、こんな苦しみを与えるんだ…っ。

必死に咳と涙を止めようとするコナンに、胸が張り裂けそうになる。
不条理な苦しみを代わってあげたいと、いくら望んでもそれは決して叶わない__。



ごぼ…っ__



一際嫌な音が耳につく。
縋るようにコナンの手が俺の服を握った。
それに促されるようにコナンに視線を戻した俺は、目を見開くしかなかった。
さっきまで吐瀉物に混じる程度だった赤が、吐瀉物を覆うほどボウルに吐き出される。
幾筋か、服や毛布に飛び散った。
赤が嫌に鮮明に、視覚を刺激した。




__吐血…__。




コナンの身体が限界を訴えている…。





その事実に目の前が真っ暗になった気がした。


嘘だと、信じたかった。

これは夢だと…__。

けれど、それは赦されない…逃げ。

容赦なく突きつけられる、現実…。


「……ぃちゃ……」
コナンの手の周りに皺が増える。
指先が白くなるほど、コナンが俺の服を握り込んだ。
「コナンっ喋んな!」
口元の血を袖で拭おうと上げさせた顔は、涙と鼻水と血でぐちゃぐちゃだった。


「にいちゃ…。恐いよ…っ!…死にたくないっっ!!


__しにたくないよっ!にぃちゃん……っっ!!!」


悲痛な叫びが鼓膜に突き刺さる。


喉の痛みさえ無視して、枯れた声が張り上げられる。


「やだよぅ…っ!」


止まらない咳の合間に、哀しみが顔を出す。


拭っても拭っても…血が口元から滴り落ちる。


「コナンっ!…大丈夫だからっ!死んだりしねーからっ!」


それが陳腐な偽りだということは、誰の目にも明らかだった。


それでも、そう言わずにはいられなかったのだ…。


コナンと__俺を励ますために…。


「ちょっと待ってろ、コナンっ!今病院に連絡するからなっ!待ってろよ!!」
何度も恐いと繰り返す弟を抱きしめ、俺はその部屋を出た。
リビングに駆けて、救急車を呼び出す。
落ち着けと言われても、落ち着けるわけがないだろうと怒鳴ってやりたくなった。
ゆったりと対応する相手にむかむかして、何を言ったかなんて覚えていない。


早く…コナンの傍に戻りたかった。


少しでも長く弟の傍にいたかった。





__しかし、電話を終えて部屋に戻っても、コナンの姿はどこにもなかった…。





「………こな、ん……?」
ドアを開けた格好のままで目を見開き、俺は呆然とそこに佇むしかなかった。
自分の震える声で、コナンがいなくなったという現実を理解し、それがまた脳を掻き乱す。
「…ぉ、い……。コナン、コナンっコナン!!!どこにいるんだよっ!!こんなときにかくれんぼなんて悪趣味だぞっ」
部屋を、見渡す。
汚れた毛布を剥ぎ、ベッドの下を覗いて…
それでも、コナンはどこにもいなかった__。


「コナン!!!なあっ出てこいよっっ!!!」


喉が痛くなるほど、叫んだ。
情けないほど余裕のない声が虚しく反響する。
いざという時こそ、明晰なはずの頭脳は働かない。


…何が名探偵だ。


…何が良い兄だ!


一番、助けたい人さえ守れない。


一番、知りたい謎さえ解けれない。



ダンっっっ!!



己の手が痛くなることなんて知ったことではないと、思いっきり拳で壁を殴りつけた。


完璧な人間だと驕(おご)っていたわけではなかったが、あまりにもやるせない思いは捌け口を失って、俺の中で暴れまくる。
自分の無力さに吐き気がした。
あのとき、傍を離れた己を呪った。



それでも、コナンがいないということは変わらなくて…__。



眼前が歪んで、膝の力が抜ける。
ズルズルと床にしゃがみ込んだ。
床についた手の甲に雫が幾粒も弾ける。
床に額を擦り付けて、俺は呻いた。


「…どこにいんだよ…っ、コナン……っっ!!!」


どうしていなくなっちまったんだ…っ。

俺に、黙って…っ!


救急車のサイレンの音が近づいてくる。
それは不吉を予感させるかのように、怪しく響いた。


死ぬな…。

死ぬな、死ぬな…っ。

「死ぬな…っ!!」

頼むから…。

まだ、コナンを奪わないでくれっ!!


「お願いだ……」


誰か…。

誰か…。

助けてくれよ…。

コナンを__。

俺を__。



不意に、ポケットの中が振動した。
縋りつくように、俺はその通話ボタンを押していた…。





救急車から降りてきた数人を相手にもせず、俺は携帯を手に家を飛び出した。
後ろで誰かが何かを言っているのが聞こえたが、それらはすぐに意識の外に追い出した。
車に乗り込み、半ば逃げるような格好で道路に車を出す。


夜の帳が、重く地上に降りていた。



…電話は志保からだった。
これから帰るか、今日は帰れなくなったと言うつもりだったのかもしれないが、要件を聞く前に俺は電話口に叫んでいた。

コナンかっ!?…と。

『工藤くん?どうしたの?』
『し…ほ、か…?』
志保の肯定を聞いて身体中の力が抜ける。
『…コナンくん、どうかしたの?すごい慌てていたみたいだけど…』
今思えば、志保の声は震えていた。
おそらく、最悪な予想でもしていたのだろう。
俺が慰めて落ち着かせてやるべきだったのに、このときの俺は理性も余裕も失っていて感情の制御さえできずに、コナンがいなくなったんだと必要以上に声高に叫んだのだ。



視界を閉ざす黒が、未来を飲み込んでしまうかのようだ。
それが堪らなく恐くて、俺は無我夢中にスピードを上げた。



行き先は、東都湾。

__海のある浜辺だ。





…志保に促されるままに、俺は大雑把に状況を語った。
聞き終わった後、志保はコナンが行きそうな場所はないかと問うた。
それが思いつくなら、問答無用でそこに行っている。
改めて、俺はコナンのことを何も分かっていなかったことに気づかされた。
『じゃあ、行きたいと言っていたところはなかった?』
俺は必死で記憶を探る。
病院で、調子の良いときも悪いときもずっと傍にいた。
たくさんの話をした。
それらがものすごい速さで頭を駆け巡る。
しかし、すべてが取り留めのないものばかり。
俺は、自分が核心をつく話から逃げていたことを思い知らされた…。

『家族旅行…』

え?と、ぽつりと電話越しに呟かれた言葉を聞き返す。
『家族旅行、コナンくんとまた行きたいねって話してたの』

志保の言葉に、一瞬で目の前に浮かぶ光景。

__いつだったか、コナンが俺の携帯を開いて、何時間も眺めていたことがあった。
確か、あれは身体の自由が効かなくなったと訴えた日だったか。
『ねぇ新一兄ちゃん。また旅行に行こうね。皆で…また遊ぼうね』
__最期に、もう一回だけ…
そう言って、切なく笑ったのだった。

『旅行って…バカな。あれは海外だぞ。いくらなんでも遠すぎる』
綺麗な海のある、小さな島__。
あんなところに、あの身体で、しかも独りで行けるはずがない。
『でもコナンくん、あの海が好きだったわ』
あの海から上る朝日と沈む夕日が、東都湾で見た光景に似ている、と志保と二人で話していたっけ。
雄大で厳粛、かつ見惚れるほどに美しい、「生」の活力に満ちた、あの光景。
海は生命の誕生の場でありながら、死した魂の還るところでもある、という話をした覚えがある。
それ以来、コナンは羨望の眼差しで夜の帳が降りるまで、ずっと海を眺めていた。
旅行から帰ってからも、海が大好きだと…もう一度海に行きたいと…満面の笑顔で語っていたではないか…。


ここから最も近い、海。

あの光景に似ていると自らが評した、海。

それは…__。


『__東都湾、か…っ』
辿り着いた答えに瞠目して、早口で志保に礼を言い、俺は家を飛び出したのだった…。





季節外れの海は寒かった。
暗闇が澱んでいるように視界を埋める。
音の限られた中では、波の音が轟音となって呼びかけの声さえ揉み消してしまう。
母なる海の鼓動が、黄泉の国へ誘(いざな)っているようだった。
「コナァ〜ンっっっ!!!!」
不安に押し潰されないように、喉が潰れるほど叫んだ。

湾と言えども、幼き人間を見つけるには、この浜は大き過ぎた。

そして、壮大な自然の中では、人間は小さ過ぎた。

砂浜に足が取られてよろける。
浜は走りにくくて、すぐに脚が疲れてしまう。

こうしている間にも、コナンの命は刻一刻と削られている。

時は、止まってはくれない。

どれだけ願っても…。

どれだけ望んでも…__。


「コナァーーンっっっっ!!!!」


冷たい風が、砂を舞い上げて通り過ぎていく。
濡れた頬が冷たかった。
吹きさらしの冷風が、容赦なく体の末端から体温を奪っていく。
健康体の俺ですらこんなに寒さを感じるのに、熱の高いコナンはどうしているのだろう…。
半ば諦めかけた心根で周囲を見回していると、不意に、闇の向こうに人の気配を感じた。
「…っ!__こなん…?」
縋るように、駆け出した。
何度も足が縺れて転げそうになっても足を止めることはできない。
あやふやな気配を辿って、辿り着いたそこには…__。





幼い男の子のが、ぐったりと砂浜に倒れ込んでいた…。





「コナンっっ!!!!」


塊は砂に顔を埋めたまま、ぴくりとも動かない。
それがどうしようもなく恐怖を煽った。


コナンがまだ生きているという証拠が欲しくて、塊を抱き起こし、何度も名を呼びながら揺すり続ける。


「コナンっ!コナン!!!頼むから目を開けてくれよっ!…なぁ!!!」

あれが最後だったなんて言わないでくれ。

もう一回、声を聞かせてくれよ……っ!


切ない思いが胸に詰まって、止めどなく伝い落ちる涙はどうしようもない。


「コナンっっっっっ!!!」


耳元で、うるさいほどの音量で叫んだ。


__コナンの命の糸を繋ぎとめるために…。


目から溢れ出た雫が、コナンの顔にぼたぼたと落ちる。
ふと、ぴくりとコナンの瞼が震えた気がした…。


「…っ!コナン!!!」


もう一度、強くはっきりと名を呼ぶ。


__途切れかけた糸を、しっかりと掴もうと手を伸ばしたんだ。


「…ぅ……」


それは、波の音にさえ掻き消されてしまいそうな、小さな小さな呻き。
しかし、俺がそれを聞き逃すはずもなく、希望に僅かに浮上した心で覚醒を待った。



瞼が一度大きく震え、うっすらと蒼玉が顔を出す。
しばらく呆然と眺めていたが、次第に瞳が焦点を合わせていく。
虚ろだった蒼に、俺が写り込んだのが分かった。
「……ぃち…ぃちゃ……」
"新一兄ちゃん"
そっと、コナンが俺を呼ぶ。
何だ?と半ば急(せ)くように問いかけると、コナンは最後の力を振り絞って、笑った…。



"ありがとう"



紡がれたその言葉に、我が目を疑った。



"ずっと、傍にいてくれて…ありがとう。

僕、とっても嬉しかった…。

お父さんも、お母さんも、帰っては来れなかったけど…兄ちゃんがいたから寂しくなかったって……本当だよ。"



「…な、んで……なんでお前がありがとうなんて言うんだよっ!いつも…いつも元気をもらってたのは俺の方だってのにっ!」



胸が詰まって、言葉にならない…。
言葉の代わりに、涙が止めどなく溢れ出る。


コナンは、緩慢な動きで首元を探り、銀の鎖を取り出した。


その小さな掌にちょこんと乗っているのは…

小さな、翠玉__。



"志保お姉ちゃんがくれたんだよ…。

早く元気になるおまじないなんだって…"



そう語るコナンと掌で煌めく翠玉を、俺は信じられない思いで見つめていた。


だって…それは…___。



"これ、兄ちゃんにあげる。

僕の一番の宝物だったけど、兄ちゃんにあげるよ"



重く澱んだ闇の世界で、それだけが光を発していた…。



"大好きだよ、兄ちゃん…。

だから、笑って…?

僕は、ずっと兄ちゃんの傍にいるから…。

兄ちゃんはこれからも探偵を続けてね…?

人の命の大切さが分かっていない人たちに、

ちゃんと…教えてあげてね…"



「………コナン………っ」



"僕…新一兄ちゃんがお兄ちゃんで良かった…。

病気は苦しかったけど、幸せだったよ…。

ねぇ……兄ちゃんも、幸せだった…?"



俺は涙を拭って、精一杯の笑顔を作った。

「…たり前だろ…。…んな心配してんじゃねーよ……」



"良かった……"



本当に安堵したように、コナンの瞼が落ちる。

「ぉいっ!コナンっっっ!?」



"ねぇ、兄ちゃん…。

兄ちゃんは、志保お姉ちゃんを幸せにしてあげてね…。

本当は、僕が志保お姉ちゃんを幸せにしてあげたかったんだけど…。

お姉ちゃんは新一兄ちゃんが好きみたいだから…

僕には…無理だから……"



「……っ………こなん……っ………」



"約束だよ、兄ちゃん。

お姉ちゃんのことと探偵のこと…。

二つ、僕と約束して…?"



「…ああ。約束するよ。絶対…絶対、守ってみせるから…」



"兄ちゃん…ぼく……"







「……にぃちゃんのこと、大好きだからね………」







震えた声。

掠れた、吐息のような声。

波の音にさえ掻き消されてしまいそうな、小さな小さな声。

けれど、それは…確かにコナンの声だった。


轟音とも言えるほど届いていた波の音が消え、俺の耳ではコナンの声が僅かな余韻を残して響いた…。





かくん、と__



余韻に浸る俺の眼前で、コナンの身体から全ての力が抜けた…。



翠玉を握っていた手が、砂の上に力なく投げ出される…。





__縋るように左胸に押し当てた耳には、生命の鼓動が伝わってこなかった…__。





__…伸ばした指は、途切れた糸を掴むことができずに…虚しく空を切ったのだ…__。















§_§_§_§_§















__いつから…あの運命は決まっていたのだろうと、どんなに考えても…答えなんか出なかった。





__あんな運命を辿るのならば、生まれてこなかった方が楽だったのかもしれないと弱い俺が嘆いても、あいつが与えてくれた光を消すことなんてできるはずもなく…





胸の痛みを残したまま、あいつとの記憶を棄(す)てられない…__。





闇は、未だ俺の目の前にあり続ける…。





変わらない。





そう…あのときから、何一つ…__。










俺は首から金具を外し、細い鎖を掌に落とした。

窓からの月明かりを跳ね返して、きらりと光る、それ。

その輝きは、あのときから一切変わっていない。



「__…こんな暗いところで何をしているの?」



不意に聞こえた声。
追憶を破り、意識を現実に戻すそれは、しかし、他と違って不愉快には届かなかった。
「………志保………」
「入ってもいい?」
遠慮がちな声。
ここを無断立ち入り禁止にしたのは、もうずっと昔だ。
「見せたいものがあるんだ。来て」
そして、この部屋に積極的に誘うのもこれが初めてだった。
志保が真っ直ぐに俺の方に来るのが気配で分かる。
掌でものを弄(もてあそ)んでいた俺の横から、志保は手を覗き込んだ。
「あら綺麗。……懐かしいわね、それ…」

月光に反射するのは翠の光。

小指の爪ほどの、小さな翠玉__。


「コナンが、最期に渡してくれたんだ…」

でも、それの本当の起源は、それよりもずっと前。



「生」に絶望した彼女に贈ったのは、数年前の俺。

"俺がずっと傍にいるから"__という約束の言葉とともに…。

だから、早く元気になって帰って来いと…。

それから、これは"快復を願うお守り"となったのだ…。



「私には、もう必要のないものだったから、コナンくんにあげたのよ」
「必要のないって…せっかくのプレゼントだってのに、ひでーなお前…」
悪気もなく言い放つ志保に、思わず苦笑する。
「__必要ないわ。今の私は、あなたの言葉を信じているから…物なんかなくても、いいの……」
月明かりに照らされて微笑む彼女は、触れるのを躊躇うくらい儚く、手を伸ばしたくなるくらい美しかった。
まるで月の女神のような志保に、俺が選んだ行動は後者だった。
その切なさを覚える微笑みを刻み込む唇に指を滑らせ、自分の唇でそっと触れる。
一拍の後唇を離して、宝石よりも深い色の翠玉と見つめあった。
「コナンくんが、あなたにそれを渡した気持ちがなんとなく分かるわ」
涙に震える声で、それでも言葉を紡ぐ彼女。
「……教えて?」
見つめる瞳を少しだけ甘くする。


ああ、こんなに優しい気持ちになったのは久しぶりだ。

こんなに、人のことを思いやったのは…久しぶりだった。


「あなたは捨て身なところがあるから、待つしかできない私たちはいつも不安なのよ。…ちゃんと元気でいるかってね__」
急に愛おしさが増して、ぐいっと力強く抱き寄せた。


人の温もりを、久しぶりに思い出した気がした。


「…だから、これからはあなたが持っていて。ちゃんと、帰ってくるように……」
応えるように、志保の腕が背中に回って抱き締められる。
「ずっと傍にいるって言ったじゃねーか。さっき、俺の言葉を信じてるって言ったじゃねーか」
「…それでも、願っても良いでしょう?私、欲張りなのよ。一つじゃ満足できないわ」
志保が泣いているのが僅かに伝わってくる。



__約束をしても、どれだけ願っても…

人の生命が儚いものだということは、二人とも痛いほど身に染みて知っていた…__。



だから、交わす言葉は未来を心配する意味のない応酬ではなく、今を現す愛の言葉を__。



「愛してるよ、志保。だから、お前を悲しませたりしない。…コナンと約束したんだよ。お前を幸せにするって……。
…なぁ、お前は今、幸せか?」
ぎゅっと、俺を抱く腕に力が篭ったのが分かった。
「__幸せよ。私はあなたの傍に居れるだけで嬉しいの。それだけで、幸せだわ…」
「こんな、夫でもか?」
そんなことを訊きながらも、離れ難いと志保の小さな頭を抱き込む。
俺の胸の中で、志保がくすりと微笑んだ。


「それでも、私は愛してるわ」



__ああ、これほどまでに健気な妻が、志保の他にいるだろうか…?

小さな幸せを殊勝なほど大切にする彼女を、心から愛おしいという思いが湧き上がる。



「…志保…」
掠れた声でそっと囁く。
腕の力が緩んだことにつられて、志保は顔を上げた。
胸に溢れる思いのまま、志保の唇に口付ける。





__「明日」が来ることは、決して当たり前ではない。

でも、そのことに絶望するのはもうやめよう。

こんなにも俺を愛してくれる人がいる。

…こんなにも愛おしい人がいる…。



だからこそ、俺は「生」を望むのだ。


そうだろう?


−−………?









____________________




最後まで読んでくださってありがとうございました。
いかがでしたでしょうか?
これは、私の価値観が全面に出た作品となりました。
是非、皆さんのご意見・ご感想を教えていただけますことを心から望んでおります。


__人間が、生きることは何故だろう…?
あなたは、生きていることにどんな意義を持っていらっしゃいますか…?




クローバーの花言葉:「約束」




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