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 立ちあがり、道を横切って近寄る。
 それはまるで大きなスズランのようだった。それがウネウネと頭を振るようにして、音を出していた。

「う、動いてる……」
「坊や。もしかして、バエルを見るのは初めてかね?」
「バエル? これこと?」

 大きな紙袋を抱えた老婆は頷く。
 紙袋の口からオレンジが溢れて、はみ出していた。

「どうして動いているの?」
「バエルは地面の振動を感じ取って動くんだよ。
 ラウァーレ様の御令嬢の妙案さ。事故を減らすための……おっと」

 抱え直した紙袋からオレンジが零れ落ちて転がっていった。枯れ木のような腕を伸ばした老婆の横をシュクルが追い抜く。
 親切は愚かな行為だった。
 道の真ん中で静止したオレンジに手を掛けたまま、半身を老婆のほうへ向けようとしたシュクルの目に、車輪が飛び込んできたのはその時だった。
 シュクルは声を上げなかった。悲鳴を上げたのは、老婆のほうだった。

「――ああ!」

 驚いた表情すら作れないまま、オレンジに手を掛けたシュクルの身体は宙に浮いた。オレンジは果肉を飛び散らせて轢かれた。老婆が見たのはそこまでだった。目を開けていられなかった。
 けれどシュクルは見ていた。自身が浮かんだと同時に、馬車の御者の驚いた顔が一瞬目の中に焼き付いて、我に返った時にはすでに老婆の姿はない。
 風にさらわれたのだと思った。

「しっかりしな」

 シュクルの腕を、片手で持ち上げている女が言った。長い朱色の髪が、疾走する馬の振動に合わせて上下にはためいている。太陽がその髪に遮られたり現れたりして、目をチカチカ刺してくる。

 彼女は片目のヒーローだった。右目を――というよりは顔のほぼ右半分を見事な刺繍を施した布で覆っており、対して開かれている左目はシュクルを射抜くように見据えてギラギラと光っていた。
 その煌々とした光が深緑の色と不釣り合いで、不思議な魅力があった。
 彼女は瞳の中に鬱蒼とした森を飼っているのだ。

「……あの」

 お礼を言いかけたシュクルを放り投げるように降ろすなり、彼女はまた走り出した。
 逃げ去った馬車を追いかけて行ったのだろうが、すぐに追い付いてしまうと思った。
 彼女の馬は、速いとかそういう次元ではなかった。もっと――

「坊や……」



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