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「逆向性の部分健忘とみえるな」
いくつかの質疑応答をした後、ハルトが診断を下した。
傍で見ていたジャンが肩をすくめる。
「なんじゃそら。また難しいこと言って……」
「要は全てを忘れてしまっている訳ではないということだ。
ここで目を覚ます以前の記憶において、思い出せるものと思い出せないものとが混在している状態――例えば、自身の名前と僅かな生活知識は思い出せるが、以前住んでいた場所や不思木(フシギ)のこと、ミスターのことは一切思い出せない、という風にな」
「はあん」
ジャンが感心したように頷いた。
「記人ってのはすげぇんだな。医者の真似事もできるのか」
「できる者もいるが、全員が必ずしもそうというわけではない。
ただ私たちはその分野の専門だからな。養成機関のカリキュラムで、記憶障害については必修になっているのだ」
「かりきゅらむ?」
「……もういい。
さてシュクル。なにを知りたい?」
シュクルは訊かれて戸惑う。
自分が何を分かっていないのかさえ分からないのに、何を訊けばいいのだろう?
“今朝のこと”――ミスターという人のことも気になる。そもそもハルトは、記人とは何者なんだろうか。どうしてジャンのような肌色の人が一人もいないのか。それに街角の不思議な植物(不思木というらしい)のこととか、ベニアさんのこととか――。
「すまない。聞き方が悪かったな」
ハルトが米神に手を当てる。
「シュクル。分からないことは、くだらねぇと思うことでも片っ端から聞きゃあええ。ハルトなら間違いないからな!」
「くだらない記録など存在しない」
ハルトはギロリとジャンを睨んだ。
「ハルトは……物知りなんだね。すごいね」
「物知りも物知りだ。天下の記人だかんな。偉いさんなんだぞ!」
「えらいさん?」
「いや。確かに記人は誇るべき仕事ではあるが、私は“偉いさん”などではない」
「あ、そうなのか?」
「ああ。ひと口に記人と言っても、階級があるのだ。私はまだ卒業したばかりで、修行中の身だ」
「ほお」
「ねぇ、その記人って何なの?」
シュクルが蚊の鳴くような声を出す。
ハルトは俯くシュクルが強く袖を握っているのを見て、また無意識のうちに眉間に皺を寄せていたことに気付く。
『お前の唯一の欠点は、その怖い顔だ』
そう師匠に言われたことを思い出して、ハルトは眉間から力を抜く。
「記人とは……記録を扱う職業、またその職業に就く者のことをいう。
世界中のできごと、特定の人物・団体、不思木――挙げ始めたらきりが無いが、それらの記録をとり、管理保存し、伝えていくのが仕事だ」
「新聞記者みたいなもの?」
「商業目的ではないから少し違うな。公務だ」
「オッチャンらの間じゃあ、国から認められた旅人ってことで歓迎している奴が多い。賊みてぇな真似はしねぇし、食事代や宿代なんかは国が支払ってくれるから安心だ。
それになんたって、自分の知らない土地の話をしてくれるのが楽しみだよなぁ」
「知らない土地……」
自分にとっては、この街だって知らない土地だ。
目に映る全てが初めてのものなのに、そんなものを訊いても、余計に困惑するだけのような気がした。
(どうすれば記憶が戻る?)
シュクルの顔は晴れない。
落日に照らされた窓の外を見ると、店の前に数人の男が立っているのが見えた。
「ジャン」
「なんだ?」
「お客さんみたい」
そう言って、やはり少し違う気がした。
お菓子を買いに来たにしては、やけに殺気だった雰囲気だ。
それにそのカッチリした服装だってお揃いで、私服には到底思えない。
「ありゃ? もうとっくに店は閉めちまってるんだがな……」
ジャンが立ちあがって、ドアを開けようとする。
ハルトも外を覗いた。
「ジャン待て!」
「あ?」
「アラギジルの者だ!」
ジャンがハッとしたところで、赤髪の男が口を開いた。
「ジャンパルダフラだな?
シュクルを渡してもらおう」
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