8
野次馬が取り囲み始める中、よろよろと近寄って来たのは先程の老婆だった。
紙袋を一体どこに置いてきたんだろう。あのオレンジはどうなったのだろう。なんて考えてしまうぼくは、おかしいのかもしれない。
「……ああ……っ」
老婆が手で顔を覆う。
その小奇麗な服に、真新しいオレンジ色の染みが付いているのを見た。
それだけで十分だった。
「……ごめんなさい、おばあさん」
野次馬の視線に刺されながら俯いたシュクルに、老婆は震える声で言う。
「いい、いいんだよ……それよりあたしゃ、あんたが死んでしまったかと……いや、いいんだよ。無事なら……じゃあね」
逃げるように去ってゆく老婆の反応は最もだと思った。
自分が落としたたった一個のオレンジの為に、人が死んでしまうところだったのだから。そして無知は言い訳にならないことも、シュクルにはよく分かっていた。だから、何も言えなかった。
「――おい、バァちゃん! それ独りで持てるんか?」
ジャンパルダフラは老婆が力なく頷くのを横目に、散り始めた野次馬をかき分けて行く。独り立ちすくむシュクルを見つけ、駆け寄った。
「おいシュクル!」
「……ジャン……」
唯一知る人物を認めたシュクルは、その胸にすがるように倒れこんだ。
やっぱり焼き菓子の匂いがして落ち着く。
「なんだってんだ? この騒ぎは」
「馬車にひかれかけたのだ」
答えたのはシュクルでなく、ジャンの後ろからやってきた男だった。
眉間に皺を寄せた強面の男だった。目と眉の感覚が極端に狭く、決して大柄なわけではないのにものすごい威圧感があった。灰と翡翠が混じったような色の短髪をストレートバックにしている。
「ひかれかけたって! 大丈夫かシュクル怪我ないか?」
「……うん、大丈夫」
かすり傷一つ負っていないシュクルにジャンは安堵の息をつき、例の如く爆発したかのように笑った。
「寝巻姿に裸足で出てきちまったんだなァ。元気なこった!
しっかしハルト、いつの間に聞いたんだ? おまえ今まで俺と一緒に……」
「記人とはこういうものだ」
強面の男――ハルトが腕を組みながら言った。
「ジャン、笑いどころではないぞ。間一髪のところ、豹馬に乗った女に助けられたから良かったものの――」
「……ヒョマ? あれは、ウマじゃないの?」
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