5
「……行っちゃった」
ジャンがいなくなった部屋はすごく静かで寂しさを引き寄せる。けれどさっきみたいに、見えない気持ちに首を絞められて、ひとりでパニックになって、泣くなんてことはなかった。
漠然と、強く、思っていたことは――
「思い出さないと」
ただそれだけだった。
まるで渇いた喉が水を求めるように、自然で強い欲求だった。
何を思い出したいのかすら分からないままベッドから降り、裸足で立ち上がる。足首、足の甲、足の指がちゃんとあった。意識をもって動かすことができる。
夢の中では足なんて見えていない。クッキーの香ばしい甘さに浸っているときだってそうだ。
ぼくは確かに現実に生きていた。
「そうだ記憶。思い出すことが、唯一ぼくを救ってくれる」
鏡に映るのは、ゆるく波打ったクリーム色の髪。情けなく下がった眉に、自信なさそうなカラメル色の目。涙の跡。笑顔を象れない唇。青ざめた顔。その頬に触れる。
「これはシュクル。ぼくだ」
見慣れた容姿は一つの証明だった。
思うより酷い顔をしていたのに、お腹が温かくなるような安心感がある。
(大丈夫。きっと思い出せるから)
自身に言い聞かせながら、裸足で踏み出した。
この家は三階建てだとジャンが言っていた。今いる三階と二階はプライベートルームで、一階が仕事場なのだと。
とりあえず仕事場を――というよりお菓子を――見たくて、一階まで下りる。
ヒョオ と微かに風の音が聞こえた。
階段を下りたすぐ横にある裏口の扉が、風で開いていた。
ジャンは鍵を掛けていなかったのだ。
一刻も早く記憶を取り戻したいのなら、答えは決まっている。
靴はない。裸足のまま外に出た。
そこは白壁の家に挟まれた薄暗い路地だった。ぼくなら二人くらい通れそうだけど、ジャンなら彼一人がやっと通れるくらいだろう。
左は行き止まりになっていて大きな甕(カメ)が一つ置いてある。蓋を開けても記憶は入ってなさそうだったので、光が差し込む右側の方へと歩いて行った。
人の気配がする。
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