要望部屋
短編「君を愛しいと思う瞬間に全ての音を消して」
───あんたを愛しいと思った瞬間だけ、この耳は、脳は、その瞬間まで認識していた音の全てを雑音に変え、そして消してしまう。
その時だけは自分が単純なヤツだなと自嘲することも嫌悪する事もなく、ただ切り取られた世界でたったひとりを認識した。
なんて愛しい。
なんて愚かしい。
なんて、儚い。
‐君を愛しいと思う瞬間に全ての音が消える。
薄暗い天井を見つめ続けて時間の感覚が麻痺していく。静か過ぎて起こった耳鳴りにも慣れて、今何時かという疑問すらもすぐに流された。
僕はあいつみたいに強くなれない。
距離を取られたと気づいた時点で、相手に対する全ての気持ちを投げ捨て逃げてしまうから。
『───…俺と、付き合って』
なにを言っているんだろう、と最初は思った。
そしてやっぱりアイツの中で、今までそんな肩書きなんてなかったんだと。
でも、その前に言われた言葉がその思考を押し返して、思い込みではないと諭すように言ってくる。
あの瞬間に、全ての音が消えた。
あいつは距離を取られた瞬間に、今までの関係を終わらせて、いや、上書きしたのだ。
噂は嫌でも耳に入ってきた。
誰彼構わずではないものの、色んな生徒を抱いていたアイツが、それを止めたと。
視界の端に映るアイツが、ひとりでぼんやりしている姿ばかりになって。
もう関係ないのにな、とまた自嘲して、奥底で燻る何かを無視した。
なのに、アイツはそれを簡単に燃え上がらせる。
同時に深い深い底のない沼に沈められていくような、這い出す気力も湧かないくらいに落ちていくだけのような感覚を抱かせる。
『───…雨倉だけの俺にして』
なんて勝手な言葉なのだろう。
それでもその勝手さに満たされてしまった自分も、きっとアイツと変わらないような気がした。
自分勝手な人間の、自分勝手な心。
それは誰彼変わりなくそこにあって、僕の全ても、例外ではないのだと。
いつか考え込んでいた、自分やアイツや他人の愚かしさなんてものは、あの時あの状況でなければきっと無かったものだ。
だから今は、単純でも浅はかでもいい。
いつだか浮かんだ「好き」の種類。
アイツに対するそれと、食べ物や場所などのそれが混ざりあってしまっていたあの時と、今はきっと違っている。
───ぼんやりしていると枕元に置いていた携帯が震え、長さから電話である事に気付いて仰向けのまま手を伸ばして応答すると、耳に届いたのは控えめな聞き慣れた声だった。
『雨倉、寝てた?』
「起きてる」
『なんか声が聞きたくなった』
「……うん」
『あのさ、』
「…相馬」
『なに?』
「───…」
会いたい、と思ったその瞬間に、ずっと残っていた耳鳴りが消えた。
言葉は舌に乗っている。けれどそこから出ることはなく、口を閉じて飲み込んだ。
呼び掛けに「何でもない」と返すと、アイツは電話越しでもあからさまに甘ったるい声で、愛を囁く。
ああ、またこいつは簡単に僕を燃やす。
火傷すらも愛しくなるほど、内側からじわじわと迫っていって、認識を強固にしていくんだ。
歪んでいるようで純粋な、純粋なようで歪んでいるこの愛が、確かにそこにある。
『会いたい、』
「……、うん」
気付いてほしい、なんて思わない。
言わなければ分からないまま。だからこそコイツは言うんだ。
振り出しに戻った、わけじゃない。あの頃コイツは浮気をしていて、ただ僕から見て浮気をしていたんだ。
だけど今、そうではないと言い切れない。
今までしてきた行為が浮気になると知ったコイツは、蒼白になってずっと謝っていて、握ってきたその手は震えていた。
相馬は真っ直ぐだ。
真っ直ぐなようで、間近で見れば細かく歪んでいる。
だけどそれが相馬なのだ。
そしてそんな相馬を愛しく思ったのは僕なのだ。
「……じゃあ、来れば」
『え、いいの?』
「どっち」
『い、行く!すぐ行く!』
待ってて、と慌てた声に次いで通話は切れて、虚しい機械音が耳に入ってくる。
ぱたりと腕を下ろして目を閉じた。
鳩尾から這い上がってくるナニかを、ただ抑え込みたかった。
───好きじゃ満たされない。愛してるって言っても足りない。この欲を、溢れ出てくるこれを、どうやったら止められるのか分からないんだ。
なら、ぶつけてしまえばいい。
互いにぶつけて相殺させてしまえばいい。
溢れすぎてやり場のなくなるほどのものならば、そうやって殺してしまえ。
そしてどちらかに対して攻撃に変わった時が、この強い想いの変化だと。
いまはまだ、そう思っている。
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