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中編
07
 



 出社するとまず最初に出会うのが受付嬢ではなく社長である事に、入社して10年経った康之はもう慣れていた。



「───寺くんおはようこれ見て!昨日撮ったんだーかわいーでしょーうちの孫!」
「おはようございます社長。今回の写真も可愛いですね」



 この社長の事だから出社してその場で受付嬢に見せびらかしていたのだろう、康之の目先の腕には高価そうな鞄がぶら下がっている。

 秘書は社長より先に出社していて、社長室にいるはずなのでそれを分かっているが故の行動である事は最早社内で周知だった。
 それでも秘書が待ち構えていないのは、朝っぱらから言っても止めない相手に発する言葉の無駄遣いだと諦めているに他ならない。
 出社する社員達への挨拶がわりに行われているそれは、社員が深く突っ込まなければ一回目の終了時間は大抵決まっている為、それが済めば社長室に向かうのでもう放置されていた。

 因みに新人は社長の行動に戸惑って何か言わなければと焦っては詳細を尋ねてしまい長話に付き合わされ、結果的に出社して来た先輩が救出して後々「朝は挨拶と"可愛いですね流石社長のお孫さんです"、くらいで去ればよろし」という定石を学ぶのである。



「でしょー?本当かわいいんだから! あ、倉科くんおはようこれ見てよ!」



 次々と出社してくる社員のひとりも欠かす事なく孫の写真と鞄を手に受付前を動き回っている社長を横目に、康之は社員証を機械に翳してエレベーターに向かった。
 所属課のある階へ降りてガラス張りの中へ入り、そこかしこから挨拶が飛び交ってそれに返しながら出入り口脇のドリンクサーバーで珈琲を入れていると、同僚の男が出社してきて康之と目が合えば片手を上げて近付いて来る。



「おはようさん、おれも珈琲」
「おはよう。自分で入れろ」
「冬は終わったのに冷たいぞ」
「生憎俺は年中冬だからな」
「お前には春の日射しの暖かさは無いのか?」
「俺に春が来ないと拝めないだろうな」
「誰か寺田に春を」
「お前はどうなんだ?」
「春一番も吹いてくれないね」
「そりゃ残念」



 軽口を言い合ってから珈琲が入った紙コップを手に席に行くと、既に出社していた両隣の席から挨拶を受けた康之は仕事の支度をしながら返した。
 追われている仕事もないのでパソコンを起動させる間に雑務を片付け、紙コップ片手にのんびりと背凭れに寄り掛かる。

 ここ最近は特に忙しい日が続いていたから、逆にこうした余裕が出てくると手持ち無沙汰になるな、と康之は慣れた手付きでキーボードを叩いた。


 ───トオルが「触りたい」とあからさまに寂しそうな態度を見せたあの日から、早くも一月が過ぎようとしていた。
 あれからまたトオルは今まで通りに明るく人懐っこい態度で、あの時のような哀愁は見せていない。

 康之は正直それに安堵していた。
 気持ちに応えた所で触れ合えやしないのだから、苦痛を増やすくらいなら今まで通りの方がまだ耐えられる。
 大雑把で無頓着で諦めの早い康之が同性の幽霊に恋という感情を未だに消せていないのは、あの部屋に帰れば必ずトオルが居てそこが居心地よく感じているせいだった。



 


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あきゅろす。
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