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中編
03
 


 翌朝の宿所に客は自分ひとりで、慣れない環境に明け方の早くに目が覚めて居間に行く途中、御主人に遭遇した。
 早起きに驚いた彼は、昨夜見た着流しではなく農作業でよく見る作業着に身を包んでいて、「これから畑仕事なんだよ」と優しい笑みを見せる。

 どうやら朝に出す食事に使う野菜を収穫しに行くらしく、農作業をよく知らない自分に「一緒にやってみるか」と冗談混じりで聞いてきて、眠気もないし気になったので頷いた。



「肌寒いから長袖来ておいで、裏手にいっから」
「はい」



 夏場と言っても朝方のこの辺りはかなり涼しく、寝起きの肌寒さに掛け布団を手繰り寄せたくらいだった。
 部屋で鞄からパーカーを引っこ抜き、チャックを上げながらスニーカーに足を突っ込んだ。
 出入り口を潜り空を見ると青白く、都会では知らなかった空気の匂いと酸素を深く吸い込む。肌寒いのは確かだったが、何より空気が美味しいという言葉の意味を理解して口許が緩む。


 砂利道を歩き宿所の裏へ回ると、広い畑が目に入る。
 畑の真ん中辺りで御主人を見つけて近付くと、自分に気が付いた彼に手招きされて促された手元を覗き込んだ。



「すごい、真っ赤」
「うまそうだろう、良い子に育った」



 食べるために育てているのに、本当の我が子のように誉めて丸々と艶のあるトマトを指先で撫でた老人を見て、自分の親も祖父母もこんな風に接してきた事があっただろうかと記憶を辿ったが、何も見つからなかった。

 採ってみな、とやり方を教えてくれ、夜の空気に包まれて冷えたトマトを採ると、「初めてにしちゃうまいな」と真っ直ぐに褒められる。
 その言葉に一瞬混乱したが、じわりと迫るむず痒さに少しだけ泣きそうになった。

 トマトの収穫を終えると、次は濃い紫の長く太った茄子の場所へと移動した。



「茄子は好きか?」
「嫌いじゃないけど、あんまり食べないです」
「素揚げや味噌汁が旨いぞ」



 今日の朝ごはんだ、と一本取って渡してもらった茄子は、ハリがあり肉厚なさわり心地で、今まで見てきた茄子よりも大きい。
 朝から揚げ物なのかと些か胃袋への不安があったけれど、老夫婦が食べているなら大丈夫な気がした。


 トマト、茄子、とうもろこし、胡瓜、オクラ、ピーマンなどをカゴに分けながら採れるだけ収穫し、宿所の縁側に並べて置いた。
 気が付けば青白かった空は青だけになり、日光が畑の緑を照らしていく。

 今までこんなに気持ち良い朝を迎えた事があっただろうか。
 毎朝ギリギリまで眠りこけ、気怠い体を引き摺って動き、何をするにも重苦しい日々だった。他人と親しくなる事に怯えて自分の心の中を見られまいと固く閉ざしてきた窮屈が、今は少しだけ風通りが良く思える。


 ぼんやり空を見上げていたら、「都会とは違うか?」と御主人が穏やかに問いかけて、その空気に触れて気が付いてしまった淋しさを誤魔化すように「全然違う」と笑い返した。



「この宿所にゃ滅多に客は来なくてワシらも退屈してた。一週間と言わず好きなだけ居たらいいさね。 ああでも、学校も仕事もあんだっけか。まあ一週間居て好いてくれたらまた来てくれりゃ充分。息抜きもしねーと萎んじまうわな」
「……そう、ですね」



 本当に、まだ二日目なのに好きなだけ居られたら良いな、と思った。
 その気持ちがあるのは地元の空気に殺されてしまうという恐怖から逃げ出せたからなのかもしれないけれど、一時的でもその気持ちが自分にとっての薬になる。



 


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