中編
15
御主人はそのまま着替えに行ってしまったので、御夫人に野菜を渡していると彼が話し掛けてくる。
「荷運び手伝ってくれませんかー」
「俺ここの宿泊客なんですが」
「晃くん随分懐いているわねえ」
いや懐いているとかそんな事言ってて良いのか、と御夫人の言葉に心中驚いていると彼はへらりと笑った。
「じっさんの畑仕事手伝ってる客なんて初めて見たし、客って感じしねぇんだよな」
「お世話になってるから手伝わせてもらっているんですが」
「かき氷屋のあんぱん奢るからー」
「かき氷屋って言ってんのに奢るのがあんぱんっておかしいでしょう」
「じゃあかき氷付き」
「じゃあってなんです、食べ物に釣られると思ってるんですか?」
「思ってる」
「それあんたでしょ」
「バレたか」
「───なんだお前さん達、随分仲良くなってんなぁ」
御主人の声で、軽口を言っていた事を思い出して恥ずかしくなってしまった。
彼は御主人に笑って「昨夜遭遇してちょっと話した」と言っていて、何でそんなこと話すんだと思いながらも笑顔の御夫人に野菜を手渡した。
しかも御主人は彼が居ることに何の不思議もないようで、平然と会話をしている。
今日は昨日の素揚げを煮浸しにしようね、と御夫人の教えを受けながら手伝おうと彼に背を向けると、「返事くださーい」とほぼ棒読みで声がかかる。
「なんだ、何か頼んでんのか?」
「荷運び」
「アホか」
「いって!」
お客に荷運び頼むな馬鹿が、と御主人の鉄拳を食らった彼に少し笑ってしまったが、背を向けているのでバレてはいないはず。
煮浸しを作ったら、卵焼き作りを俺に託した傍らの御夫人は味噌汁の具を切っている。
「だってあれ見て、客っぽくねぇもん、息子か孫じゃん」
「そりゃわしらは孫みてーに思っとるがよ、お前から見りゃうちの宿所のお客だろうが」
「そーだけど…」
「なんだいお前、そんなに楓くんの事気に入ってんのか」
「ん、あんた楓って言うんだ」
「名前知らんかったんかい」
「俺名乗ってないし」
「アホ。そりゃあの子も名乗らんわ」
背後で交わされる会話が自分の事で落ち着かない。
初日から名前呼びだったから老夫婦に呼ばれるのは慣れたが、聞き慣れない声で自分の名前をさらりと呼ばれると逃げたくなる。
女みたいな名前で、白くてもやしみたいだから良くからかわれていた。トモダチは皆苗字で呼ぶし、親族は名付けたくせに名前を呼ばない。
楓なんて名前を好きになれるはずもなかったのに、ここに来てからどうも呼ばれるとむず痒い。
卵焼きを巻きながら、老夫婦が本当に自分を孫のように思ってくれている事実と名前呼びの会話に、羞恥と痒さとで足踏みしたくなる。
「……話題変えてくれないかな…」
「好かれるのは良いことよ」
背後に聞こえないように囁いた声は当然御夫人には聞こえて、小声で優しく返された。
隣で味噌汁を混ぜる御夫人は「楓ちゃん卵焼き上手ね」と、焼き色を見て褒めてくれる。
ああ、もう、居た堪れない。
煮浸しに切った卵焼き、焼き鮭と味噌汁を盛り付け炊飯器から米をよそって、当然のように一緒に朝食を用意されている彼をほんの少しだけ、どつきたくなった。
結局荷運びの話は、うやむやになったかと思っていたら町案内という名目で手伝う羽目になっていた。
お客と言いながらも承諾するんだ、と思ったもののそこに嫌悪感はなくて、孫みたいだと思われている事が嬉しかったのかなと自分の気持ちを客観視する。
食事の後に少し休んでから縁側へ野菜を取りに行くと、彼がタオルを頭に巻いている所だった。目が合うと笑顔を向けられるがそれには眉を寄せた表情を返しておいた。
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