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中編
29
 


 晃は静かに透司が吐き出す小さな嘆きを聞いた。
 リハビリを繰り返して、帰る場所もなくただ無情に過ぎていく時間の中でも「生きていて良かった」と周りに言われると「そうなのだろう」と思えていた。

 けれど今は透司の記憶には康之が居る。二十歳の時の若々しさも落ち着いて、穏やかで冷静になった彼の声や透司を見る目、康之の身の回りの話や一緒に観たテレビや聴いた音楽、いつしか触れたいと願い恋い焦がれた日々の想いが確かにそこにあった。
 このままずっと傍に居られたらと、当たり前に透司が居る毎日を過ごしてくれていた康之に対する気持ちが溢れ、どこもかしこも痛い。

 そしてこの町に来て触れる事が出来たあの瞬間の喜びは、ずっと願い続け叶った事への歓喜と触れた感触の絶望と、けれどそれでも自分を躊躇いなく抱き締めてくれた康之への愛しさを覚えている。
 思い出し、覚えているからこそ、透司は悲しかった。涙が止まらずシーツを濡らした。

 会えない痛みは、触れられない事よりも酷かった。
 このまま会えないのならいっそのこと忘れたままでいたかった。こんな想いを知ってしまったら耐えられない。
 今なら触れてその体温を感じることが出来るのに。どうして生きているんだ。霊体のままなら、ずっとあの場に居て康之と過ごせるのに。


 誰に言うでもない独り言のような嘆きは小さく、しかし晃の耳にはしっかりと届いていた。



「なんで、会えないって思ったの」
「……なんでって、無理でしょ、あの人は仕事で忙しくて、一緒に居た十年間で旅行した時が始めての有休だったんだよ? 連絡先だって知らないし、オレの名前すら知らない。身軽だった十年前とは違って生きてればお金も掛かる。まともに生活も出来ないで重荷になるくらいなら…───このまま忘れてほしい」



 心底そう思っているわけではなかった。忘れてほしくないし、本当は康之を忘れたくもない。もう忘れられやしない。それを晃も分かっていた。
 踞る姿を見たまま晃は言った。



「触りたいってずっと願ってたんだろ」
「……そうだよ、」
「それが本当に叶ったんじゃねぇの?見えない壁に触るとかじゃなくて、人肌の温度を感じられるような接触でさ」



 晃の言葉に少し顔をずらしてそちらを向いた透司は、涙で濡れた赤らんだ目を訝しげに細めた。



「…なんで?」
「だってトオルはずっとここで生きてたじゃん、」
「どういう意味?」



 眉を寄せ顔を上げた透司に、晃は微笑みを見せる。



「十二年も起きなかったのにさ、誰も見舞いに来なくなってもずっと生かして死なせようって思われなかったのは、トオルが十年間やっさんに触りたいって願い続けてたからじゃねえかな? 死んじゃったら本当にもう触れないし、家に居ても消えてたかもしれないじゃん」
「───…、でも、会えないよ」



 僅かな光が見えたかのように目を見開いた透司は、しかしすぐに寂しげに瞼を伏せて小さく溢す。
 晃はそれを見てただ真っ直ぐに「会えるよ」と言い切った。



「なんで、君がそんな事を言い切れるのさ。お互いに何も知らないのに」



 少し苛立ちを含んだ声だった。
 八つ当たりだと分かってはいても、晃はこの町の人間でいつだって来られるが康之は違う。夜行バスでも半日掛かり、週末仕事終わりの夜にバスで来て朝に着いてその日の夜に帰る事になり休む時間は殆どない。仕事の忙しさは康之を見て知っていた。
 前にいた職場よりは楽だと言うが、やることは沢山ある。毎年春に向けて大掛かりな仕事があって今頃も忙しなく働いているだろう。

 それを分かっていて会いたいなどと透司は我が儘になれなかった。
 会いたい気持ちは溢れるほどなのに。



 


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