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中編
26
 



 最初こそは、今まで何度かあったように姿を消して驚かせようという悪戯を企てているのかと考えてはいたが、翌日もその夜も、あの透けた姿は見えず冷気すら感じられなかった。
 旅行前にあった不安や危惧が現実になってしまったのではないか。その考えばかりが頭に貼り付いた康之は、しかし体調不良でもないのに会社を休むわけにもいかず、常に不安を抱えたまま過ごした。

 朝起きても晴れやかな挨拶はない。
 夜帰宅しても嬉しそうな出迎えはない。
 康之を待っているのは、トオルの居ない静かで暗い部屋だけだった。
 転職に伴い引っ越して出会うまで1ヶ月も無かったが、それから今までの10年間この部屋にはずっとトオルが居て、色々な話をして色々な表情を見て当たり前にそこに居た。
 康之が好きだと思っていた笑顔が見えない。

 本当に消えてしまったのか、それともトオルが見えなくなってしまっただけなのか、康之には分からなかった。
 食欲も失せ、休日は特に落ち込んだ。部屋が静か過ぎて用事も無いのに外に出てはトオルが居ない現実から逃げたくなる程に、康之の心に染み込んでいた。

 居なくなってから気付く、なんてフレーズの悲しい曲がビルの有線放送で流れて来ると、人で溢れるその騒がしさの中でも康之の耳にこびりつく。
 家でテレビを点けなくなった。
 仕事では普段通りに過ごせる康之は周りから心配されるような事は無かったが、目敏い同僚だけは康之を気にしていて飲みに誘って来る回数が増えた。
 あの町で撮影した画像を写真にしてみてもトオルの姿は無く、歪みすら無い。康之は自分の記憶からも消えてしまうのではないかという不安すら抱いた。

 飲めばこの淀みは薄れるかと思っていたけれど、酒に呑まれない康之は酔っ払ってその日の記憶を飛ばす事もなく弱音を吐くこともなく、ただ静かに飲んでは同僚の話を聞いた。


 一週間経っても、月が変わっても、家の中で康之は一人だった。
 この家で目覚め出会うまで孤独だったトオルの気持ちが分かると、康之は酷くその存在を求めこの腕の中に引き寄せたくなる。
 しかし彼は傍にいない。
 いくら時間が過ぎても、太陽のような笑顔と弾けるような明るい声はどこにも無かった。








 ───トオルが居なくなってから数ヵ月が経った秋の終わり、休日で気晴らしに部屋の掃除をしていた康之の携帯が着信を知らせた。

 呼び出している名前は久住晃と出ていて、康之は慌てて干しかけの洗濯物を放り携帯を掴む。



「も、もしもし…!」
『どうも、こんにちはー、覚えてる?』
「こんにちは。はい、久住くん」
『敬語じゃなくて良いっすよ、俺年下なんだし』
「ああ…うん、」



 晃の明るく低い声に、弾んだ息を調えてベッドに座った康之は咳払いをしてから口を開いた。



「久しぶり、」
『なんか元気ないっすね、トオルは?』
「……いないよ」
『え?』



 呆気の声に康之は帰って来てからの事を簡潔に説明した。
 帰宅してから今までトオルが家に戻っていない事を常には考えないようにしていたが、さすがに晃相手では話さざるを得ない。



『じゃあやっぱり…』
「…っ何か、分かったのか?」



 確信めいた声の晃に、康之は無意識に身を乗り出した。
 トオルについて分かった事がある、と晃は真剣な声色で言う。



『ちょうど二人が帰って、1ヶ月経たないくらいかなー…前にした意識不明の人の話覚えてる?』
「ああ、」



 12年前に交通事故で運ばれ、現在も意識不明のままだという男性は晃曰くトオルに似ているという。
 面会謝絶で確認は取れず真意も分からないままだったけれど、彼について何やら変化があったらしい。



『その人ね、目ぇ覚ましたんだよ』
「!」



 


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