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中編
12
 



 それは置いといて、と倉科が逸れ掛けた話題を引っ張り戻して彼に宿の感想を問うた。
 男性社員は迷う様子もなく笑みを向ける。



「良いところでしたよ。"森の宿"っていうんですけど、見事なくらいに周りは山と森です。課長も恋人さんと行きます?」



 倉科に恋人が出来た事は周知の事実だったので本人も特に驚いたりはしなかったものの、俺じゃなくて、と首を振って言った。



「寺さんに教えてやってよ。場所探してるんだって」



 その言葉に康之は一瞬驚いて倉科を見たが、彼は平然と笑っている。



「寺さんも息抜きですか? お休みする事ないですもんね、おすすめですよ」
「…あぁ、うん、ありがとう。教えてくれる?」
「もちろん。あとで電話番号のメモ持って来ますね」
「ありがとう」



 お礼はお土産で、と無邪気な笑みで言った彼に康之は笑みと一緒に「酒以外で」と返した。
 戻って行った男性社員の背中を見送り康之は倉科を見上げた。



「課長、ありがとうございます」
「見つかってよかったですね。俺もお土産楽しみにしてます」



 酒以外で、と康之と同じ言葉を付け加えた倉科は爽やかな笑顔で康之の肩を叩き自分のデスクに戻って行った。

 最近昼休み中にずっと携帯と睨み合っていた康之を見ていたのだろう、同じ部署の社員達に気さくに話しかけている倉科だからこそ気付いたのかもしれない。
 康之は会社への土産は奮発しよう、と考えながら午後の仕事を片付けた。


 途中休みで男性社員から"森の宿"という場所の電話番号が書かれたメモを受け取った康之は、連絡するなら家以外にしようと鞄のポケット中に入れる。
 予約の電話は前日の午前中まで受け付けていますよ、という男性社員からの有り難い情報も一緒に貰っていた為、有休申請をした後だなと決めた康之は定時の退社前に倉科へ有休の相談を持ち掛けた。

 快く受け入れてくれた倉科が申請書を片手に揺らしながら「都会が恋しくならなくても帰ってきて下さいね」と冗談を言って、康之は笑いながら「有休の追加申請は電話で良いですか」と冗談を返した。



 途中でスーパーへ寄り道してから帰宅した康之をトオルはいつも通りに出迎えた。
 透けた体を器用に浮かせながら笑顔を一杯に浮かべる姿に、康之は時折たった一瞬でも「頭を撫でたい」と思う。

 それでもすぐに触れない現実が頭の中から諦めを引っ張り出して、康之は出迎えてくれる明るい存在に笑みと「ただいま」を返す。
 トオルは康之の笑みが好きだと言う。
 満面ではない微笑みでもそれが良いのだと嬉しそうに伝えて来て、その度に康之は心中の重みを感じながら「トオルの笑顔には負ける」と呆れたように言った。
 康之にとってトオルの笑顔は快晴のようだった。

 怖がられるばかりで見えたり話せる相手すら居なかったトオルが康之にこれ程までに懐くのは、自分がトオルの寂しさを解消しているからに他ならないという考えを自分の気持ちの抑えに使い、彼が康之に向ける真っ直ぐで分かりやすい好意から意識を逸らした。
 そうしなければ、蘇って来た暗いものが康之を飲み込んでトオルと同じように「触れたい」と口を滑らしてしまう。そうしたら今まで康之があしらう事で保てていた何かが、あっさりと崩れてしまう気がした。



 


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あきゅろす。
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